わたしたちの郷土楢葉町 楢葉町小学校社会科教師用資料 - 084/110page

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四 郷土の開発

1 郷土を開いた人々

 楢葉町が歴史書に出てくるのは10世紀の前期に書かれた和名類聚抄(和名抄)である。大和朝廷は東北地方(陸奥国)を平定して石城郡を置いたが楢葉はその郡内の一郷に位置づけられた。

 平安朝末期、岩城の一族楢葉太郎隆祐が楢葉郷の最初の領主として、この地方を支配したのが歴史にみる最初の人である。楢葉氏は鎌倉南北朝時代の武将として活躍したものと推論されるが史料が少なく、文献には「楢葉氏七代で滅ぶ」とある。室町時代(文明年間)岩城氏が楢葉地方に勢力を伸ばし楢葉氏を滅ぼした。

 楢葉氏を裏付ける史料に楢葉館(山田岡)があり、これは楢葉氏の居館と言われており、木戸八幡神社(上小塙)も楢葉太郎隆祐の勧請(かんじょう)と言われている。

 楢葉氏の滅亡後は、岩城氏の家臣猪狩筑後守とその氏族が戦国時代の武将として支配するも、関が原の合戦で岩城氏と共に豊臣方に組した為、徳川幕府になって岩城氏は亀田藩主(秋田県)に移封され、猪狩氏一族も伊達藩(宮城県)や南部藩(岩手県)に四散して江戸時代に移行する。町内に猪狩姓が多いが猪狩氏の氏族である。

 江戸時代、徳川幕府になると楢葉郡は磐城平藩領に属する。平藩は鳥居忠政が慶長7年(1602)に初代平藩主として入封、平城の築城など20年間勤め、元和8年(1622)に山形に移封された。

 そのあとに内藤家長が入封、その子忠興(ただおき)・義概(よしむね)・義孝・義稠(よししげ)・政樹まで6代125年間続くも、元文年間(1736〜1740)の百姓一揆の責により延亨4年(1747)に延岡藩主(宮崎県)に移封された。

 その後、楢葉郡は幕府領(天領)となり、山田岡、山田浜、下小塙・北田、大谷、上繁岡、下繁岡、波倉の各村は小名浜代官、梁川代官、川俣代官、桑折代官、浅川代官の支配変遷をうけて幕末に至る。

 前原・上小塙・井出の3か村は、新発田(しばた)藩(新潟県)(寛政元年1789〜文政12年1829)、棚倉藩(天保7年1836〜弘化3年1846)、多古藩(千葉県 嘉永4年1851〜幕末まで)の私領の支配を受けたり天領になったりした。

 新 田 開 発


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