わたしたちの郷土楢葉町 楢葉町小学校社会科教師用資料 - 088/110page
参 考
1 村むらの新田開発
江戸時代のくらしはすべて米が基準であった。領主は百姓が納める米の年貢(税金)で政治を行った。
当時地方の領主は参勤交代などで経費が嵩むことが多かったので、農民に田畑を開墾させて年貢の増大をはかった。農民はそのため原野を切り開いて田や畑をつくり、新しく溜池や用水路をつくった。このようなことを開田、新田開発、開墾と云った。江戸時代中頃以後の村は、井出村・北田村・大谷村・上繁岡村・下繁岡村・波倉村・山田岡村・山田浜村・前原村・下小塙村・上小塙村の11か村であった。
これらの村々は開田をすすめているが記録によると次の通りである。
繁 岡新田 上繁岡村 延宝3年(1651)
松が岡新田 上繁岡村 延宝4年(1652)
細 戸新田 山田岡村 明暦3年(1657)
立 石新田 繁 岡村 寛文8年(1668)
黒 石新田 大 谷村 寛文10年(1670)
仁平蔵新田 大 谷村 元禄10年(1697)
乙次郎新田 大 谷村 元禄13年(1700)
夫太郎新田 上小塙村 宝永2年(1705)
所 布新田 井 出村 宝永7年(1710)
開田面積などの記録は少ない。これらの新田は上田・中田・下田に分けられ年貢高が決められた。当時の収穫高(反・10アール当り)は
上 田 1石5斗(約160kg)
中 田 1石2斗(約120kg)
下 田 1石以下(約90kg) であった。五公五民といって収穫の半分は年貢として納められた。
開田や畑の開墾は現代も続けられているが、繁岡地区は明治に入って開発され、営団(下繁岡)・女平(上小塙)・大阪(山田岡)は第2次世界大戦中から戦後にかけて食料増産のため開発された。