わたしたちの郷土楢葉町 楢葉町小学校社会科教師用資料 - 093/110page
「こん晩は。妻が難産です。苦しんでいますから今すぐお願いします。」
「どこから来たんです。」
「大原(夜の森)です。早くお願いします。」と言うのです。そこで仲栄は、薬箱を背負いその馬にまたがって真暗闇の中を案内の者と急ぎました。それからだいぶ時間がたちました。
「まだ遠いのか。」ときくと、「もうすぐそこです」というのです。暫くすると灯(あかり)が見えてきました。
その家に着くと、とてもすばらしい屋敷で数人の出迎えを受けました。庭のカマドにはうぶ湯が白い湯気をたてていました。座敷の方から苦しそうな産婦のうめき声が聞こえてきます。
仲栄は煙草を一服つけてからとりかかろうとしますと、「早くお願いします。」とせきたてます。仕方なく早速お産にとりかかりました。なかなかの難産でしたが、やっと見ごと男の子を産みました。やれやれと下炉(したろ)でようやく一服にありつけました。
間もなく、それはそれは豪華な料理と酒が運ばれてきました。
「ご苦労さまでした。どうぞごゆっくり召し上がってください。」
といって大変なもてなしを受けました。酒好きの仲栄はやがてすっかり酔いくずれてしまいました。
「今夜は、だいぶ更けています。ゆっくり泊って明朝帰ってください。」というので泊ることにしました。
案内された寝室はこれまたすばらしく、りっぱな布団が敷かれ六枚屏風が立っていて、なかなかのものです。仲栄はそこでぐっすり休みました。
秋もたけなわで早朝の寒さが見にこたえ、ふと目がさめました。あたりを見まわして驚きました。あたりは一面の松林だったのです。ゆうべの面影はどこにも見当りません。空には明けの明星が輝やいているではありませんか。
仲栄はぶるぶるっと身ぶるいして、ゆうべのことを振りかえってみました。
「これはしまった。私としたことが、狐にばかされてしまったわい。」と思わず舌をうちをしました。
恰好が悪くなった仲栄は注意深くあたりを見わたしたが人影はありません。人に知られてはいけないと、夜明けを待たずにわが家へと急ぎました。細いうら道を根小屋から赤木をまわり岩井戸を経て松ヶ岡に、そして山沢を通ってやっと帰りつきました。仲栄は家族の者から何をきかれても答えませんでした。