わたしたちの郷土楢葉町 楢葉町小学校社会科教師用資料 - 094/110page

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狐のお産 それから7日たった晩のことです。仲栄は床の中でうとうとしておりました。すると、台所の戸がすーとあきました。おやっ!なんだろうと、ろうそくをともして行って見ました。戸が少しすいていたが、誰もおりません。不思議でならなかったが、やがて眠ってしまいました。

 夜が明けてゆうべのことが思い出され台所に行ってみました。すると吊しておいた手かごの中に雉子が2羽入っているのです。
 「誰がおいて行ったのだろう。」とよくよく考え込みました。しばらくしてはたと膝を叩き、
 「あゝ、これは狐に違いない。」と叫びました。きっと、狐たちがお産の御礼において行ったに相違ないと思いついたのです。

 朝食の時間になって家族みんなが集まりました。仲栄はそこで、これらの一部始終を語りきかせ、恩を忘れない狐たちにみんなで感心してしまったということです。

 (坂本喜久恵・大谷)

6 脇が浜千軒の由来

 天神山の地続き岬は「脇浜千軒」の部落と呼ばれ、その昔漁業と米の集散によって栄えたと伝えられている。

 この脇が浜の地名は「天正5年9月の天満宮御縁起写」に天満宮の創設由来の伝説と変遷が記録され、その巻頭に「陸奥国楢葉郡脇浜・・・」と記されていることに始まる。

 この脇が浜部落は漁業集落として栄えたが、このことは、次のような古老の話しから伺い知ることができる。

 この地の漁法は昭和の始め頃まで、「角網」という漁法によって操業したという。そして沖合いに漁礁があり近海魚の基地であったとのことである。

 又、この部落は米の集散地であり、松本友恵氏の母屋のある所に「御倉(おくら)」(米の貯蔵庫)があった。この御倉の跡を記念して碑が建立されている。

 脇が浜も太平洋の波で浸蝕され、部落民は四散したが、その多くは小名浜方面に移住し漁業を営んだということです。

 (関本幸男・前原)


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