広野町勢要覧 -010/031page

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歴史と文化の織りなす様々な伝承

戊辰戦没二ッ沼古戦場の碑
 平安時代末期頃から岩城氏が「磐城郡」を支配しました。十五世紀後半の分明六年(一四七四年)になると猪狩筑後守隆清が、岩城親隆の配下となり樽葉三ヵ村の知行を安堵しました。猪狩氏は岩城氏領土への他者の侵入に備え、北に浅見川を配し、南面は弾劾絶壁、西側は深い沢となっている高倉山に城を築き、今の広野町を含む当時の磐城郡北部を支配しており、しばしばこの地をめぐって北の相馬氏との間で激しい戦いが行われました。

 江戸時代になると、岩城氏は「関ヶ原の役」に不参したことを理由に徳川氏から領土を没収され、その後徳川氏直参の鳥居氏、内藤氏が「磐城」の地を継ぎますが、延享四年(一七四七年)内藤氏は日向国延岡に国替えとなり、広野の村々は幕府天領と大名藩領飛び地の村に分割支配されました。

 慶応四年(一八六八年)の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟である仙台・相馬藩が、磐城平城を攻略した西軍に対し、藩の命運を賭けて広野宿北部で激しい攻防戦「広野の戦い」が繰り広げられました。「磐城」の地の北端に位置することから、広野の地は時代の変遷争点となることが多々あったようです。


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