広野町勢要覧 -011/031page

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時代とともに生きる神仏

陸奥国磐城楢葉八幡神社は五里八幡とも称し、古くは楢葉山・楢葉岳とも呼ばれた五社山(685メートル)に楢葉八幡宮として鎮座していたと伝えられています。 康平年間に源頼義が勅を奉じ、奥州の安倍貞任・宗任征伐の時、通行する街道筋に鎌倉 の鶴岡八幡宮を起点として五里毎に石清水八幡宮を勧請し一社を建立し、戦勝を祈話し たことによります。前九年の役(永承6年〜康平5年)で鎮定を命じられた頼義と長子義 家(八幡太郎〉 に康平5年 〈1062年)「楢葉山の五所(五神を祀る)の霊地に石清水八幡 宮を勧請して、戦いの勝利を感謝し奉幣を納めよ」という石清水八幡のお告げがあり、 康平6年(1063年)「石清水八幡宮」を由比鶴岡に勧請し、治承4年(1180年)源頼朝が現 在地に移したものとされています。五社山に勧請した石清水八幡宮のことを御社といい、 その社の境内は、勝利が叶ったことに因んで叶沢と呼ばれるようになり、五神を祀って 養家が神酒を醸造した跡を酒造庭と呼ぶようになったということです。五社山は八幡の 他熊野、白山、羽黒、稲荷社を合祀したことによっての名称とされています。天文21年 (1552年)の磐城領主岩城重隆、明暦3年(1657年)の磐城平藩主内藤忠興などが祈願所 として社領寄進や社殿修復を行ったとされています。明治6年に郷社となり、昭和初年拝 殿が新築され、昭和43年に第二の大鳥居が建設され、春4月19日には桜花の咲き誇るなか で「花祭り」が行われ、神輿の渡御祭や流鏑馬を見学する参拝者で賑わいます。

樽葉八幡神社の本殿んの外壁欄間の彫刻

寛文年間になると、磐城平藩主 内藤忠輿の命により、この地 七曲(鶴ケ崎)新田が開墾され、楢 葉八幡神社の神官猪狩宗満が、農神 である太田農神社を勧請したと伝え られています。明治10年に本殿の外 壁欄間には、春から秋にかけての農 耕に関する素晴らしい彫刻が彫られ、 現在は、町指定文化財になり大切に 保護されています。

松原山秀臨院林蔵寺は、明治時代以前は浄土宗名越派に属し、本寺はいわき市平山崎の専称寺でした。縁起によると、創建は文明5年(1473年)、岩城氏の臣である 高倉城主猪狩筑後守隆清が、下野国の浄土宗名越派壇林円適寺第三世良徳上人の弟子通 達社良調上人に帰依し、浅見川の地(上浅見川字寺所)に一宇を建て、林蔵寺と号した ということです。しかし、慶長年間に岩城氏が国替えになり、寺は檀那である猪狩氏と ともに零落しますが、寛文11年 (1671年)中興上人といわれる第十 一世行蓮社良縁寿的上人の時に、 堂宇を上北迫の現在地に建立し松 原山秀臨院と称しました。文化9年 (1812年)野火のため焼失しますが、 弘化3年(1846年)本堂を再建し、 安政3年(1856年)に庫裡が再建さ れ現在にいたっています。本尊仏 の阿弥陀如来は運慶作と伝えられ、 寺仏となっている二十五菩薩像と ともに町指定重要文化財となって います。

阿弥陀如来像
阿弥陀如来像

二十五菩薩像
二十五菩薩像

八雲神社の浜下り神事は旧6月15日が本祭り。本殿での神事後ご神体を神輿に移し、 猿田彦(青年団貝で三方部持ち廻り)を先頭に社総代は幣束、世話人は榊を奉持 し、青年団は神輿を担ぎ、太鼓、花を持って行列を組み、海岸に向います。以前は海岸 に着くと、直ちに神輿は海に入り潮垢離をとりましたが、現在海岸線が侵食され直接海 に入ることが困難なため、一旦祭場に神輿を安置し、青年団貝が汲んだ潮水を神官、世 話人が榊に浸して神輿に振りかけます。榊は神輿の前に挿し、神官による修祓、祝詞奏 上など一連の神事が行われ、終ると赤飯(おごふ)と御神酒を全員に配って休憩をとり、 三本の花は「花を散らす」と言ってお互いに取り合い家に持ち帰って神棚に飾ります。 この神輿の渡御は荒々しくもまないと疫病病虫害が流行するといわれています。


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