広野町勢要覧 -013/031page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

浜降りの神事

上浅見川字堀切にある大滝神社と下浅見川字本町にある鹿島神社は、女神さまと男 神さまともいわれ、4月8日の祭礼には、両社の神輿が上浅見川字桜田のお旅所で 「出会い」、浅見川河口の浜で潮垢離〈しおごり〉 をとる浜降りの神事を行います。この 神事は、浜下り、お浜降り、潮垢離ともいい、海辺の浜などに期日を定めて神輿渡御を 行い、聖なる祭場を設け、神輿が海水に入ったり或いは潮水をふりかけ、後海に対して 神輿が遷座し一連の神事を執り行うものです。特色の一つとして、神事形式即ち神輿渡 御が行われることであり、遠く隔った地に浜降りをして楔を行い、神の蘇生、復活即ち 袖威の高揚を願うところに中心的意義があります。浜に降りる理由は、潮水の持つ浄硬 力にその威力、霊力を認めていたからということです。

下浅見川字桜田にある岩下山朝見寺修行院には、広野町が指定した重要文化財(絵 画)である青沼狭山の描いた日本画絵巻物『沿岸図』一巻(長さ6メートル・幅 27cm)が保存されています。この絵巻物は、文政8年(1825年)の作といわれ、幕府の 異国船打払い令が出され緊迫したなかで、双葉郡富岡町の小浜から、いわき市四倉町新 町までの、海上から見た沿岸の状況を描き表わしたものです。この寺の開基、開山は明 らかでありませんが、中興閉山は鏡海法印と伝えられ、天保8年(1837年)からの過去帳 には鏡海法印は永正2年(1505年)寂とあり、それ以前における開創と言えます。江戸時 代浜街道沿いに在り、諸国行脚の衆憎が立寄り修行の座についたといわれ、元来は惨験 僧が住職でしたが、弘化4年(1847年)、第十五世観貝僧都の代に僧位を得、以来僧侶が 住職となったと伝えられています。本尊は大日如来ですが、寺仏として薬師如来・不動 明王・地蔵尊が祀られ、境内には昭和二十八年広野町遺族会によって、日清戦役から第 二次大戦までの戦没者の霊を弔った「平和観世音像」が建立されています。

亀山神社

亀山神社の創建年代は不明ですが、亀ヶ崎新田が 延宝3年(1675年)より開発された際、この地の 守護神として祀ったと伝えられています。亀山神社の 名称については、この地の開発は寛文元年(1661年)、 磐城平城主内藤義泰によるとして、その開発と治水を 讃えた石碑(通称、風山の碑)が大正3年に社頭に建て られました。この石碑の台座右は亀の形をしています が、神社名に因むものか、中国や韓国の石碑台座に見 られる亀鉄(きふ)に由来するものかは不明です。地元で は、当社を「山王さま」とも呼んでおり、拝殿にも日 吉神社と書かれた幟旗が供えられ、日吉神を祭祀して いるのでしょう。社の裏には権現ジャクと呼ばれる切 り立った崖が見られ、ここには権現さまが祀られ、この崖下から眼病に効く鉱泉が湧き、 眼病によく効くということです。相馬郡鹿島町に鎮座する日吉神社(山王さま)の社地 の裏側にも、眼病に効く清水が湧き、以前は目を患うと社務所に泊りながら治療してい た例もあり、山王を祭祀していたという伝承や社の立地条件が酷似しています。

亀山神社の祭礼

 亀山神社の祭礼には、旧暦の1月12日に「百矢」・「召失祭 り」・「百矢通し」・「百本通し矢」といわれる弓矢の神事が奉 納されますが、現在は1月12日に近い日曜日に行われています。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は広野町に帰属します。
広野町の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。