吉田冨三記念館だよりNo.6号 -008/016page
日本のがん研究の先駆者
吉田富三先生が教えてくださったこと(昭和大学客員教授) 高山 昭三
読者はたぶんご存じない名前と思うが、私の畏敬する吉田富三先生の教えについて二、三記してみたい。先生は動物に初めて肝がんを作り、太平洋戦争中から戦後にかけてネズミに腹水型の腫瘍を樹立して「がんの化学療法」の基礎を確立された研究者で、若くして日本学士院恩賜賞を2回受賞、その後、文化勲賞の栄誉に輝いた、日本を代表するがん研究者であるのみならず、立派な教育者でもあった。
役に立つ仕事
およそ40年以上も前のことである。吉田富三先生は大学教授退官前に、財団法人癌研究会研究所(癌研)所長への就任が決まっていた。また、第50回日本病理学会会長として総会を開催することになっていたので、諸事万端につけ多忙な毎日であった。退官前年の夏、先生からの電話で本郷赤門の教授室を訪ねた。先生は「学会は創立50周年を記念して特別に記念誌を出すことになった。ついては学会誌に報告された実験腫瘍に関係する論文発表を第1巻から網羅し、1編ずつ要約して400字詰め原稿用紙1枚にまとめ、暮れまでに提出するように」とおっしゃった。私は「いたします」と答えたが、 それまでの総説を書いたことがなかったので、だんだん自信がなくなってきた。無責任に引き受けて先生に迷惑をかける結果となってはならない。この種の総説は後に残るものだ。できそうになかったら早めにお断りすることだ、などと迷いに迷った。数日たって癌研図書館で日本病理学会誌が創刊号以来揃って蔵書されているのを見つけ、これならできるだろうと思えるようになった。癌研は戦争で全館が焼失したが、戦争が終わってから図書館も以前同様に充実し、腫瘍学をはじめ病理学、生化学などの内外の図書、文献、雑誌を豊富に蔵し、研究者の羨望の的であった。
9月初めから暮れにかけて休日も返上して論文を読み、やっと847編の論文要旨がまとまった。これを項目別に分類して先生のもとにお届けした。正直なところほっとしたことを覚えている。先生は原稿用紙の束を紐解かれ、パラパラとページをめくられ、そしてじっと私の顔をご覧になりながら、「 すまないが、これを70枚の原稿にまとめてくれないか」とご下命になった。私は多少勢いづいていたので、「いたします」といとも簡単に引き受けた。しかし、今度は意外に難航した。暮れも正月もなく、総説のまとめにかかり、正月7日大学に持参した。吉田先生は2時間ほどかけてお読みになり、加筆と訂正を加えてくださった。そして最後に先生の結語を口述筆記して総説は完成した。やっと正月が来たという感じがした七草の日であった。
教授室を退室しようとしたとき先生は、「よくやってくれた。ありがとう。よい総説と思う。しかし高山君、次に誉められるのは、もっと大きな人さまの役に立つ仕事をしたときだ」とおっしゃった。癌研でその後12年近くご指導をいただいたが、ついに2度目のお誉めがいただけなかった。日ごろ動物実験を主に研究してきた私にとり、実験腫瘍学の50年の歴史を学ぶことができたのは大変な幸せで、その後の研究の進展に役に立った。先生の 「人さまの役に立つ仕事」というお言葉を今でも時々思い出しては反芻している。辞書をあたること
癌研所長に就任される前から「がんの発生」に関する研究会などで先生の謦咳に接する機会はあったが、直接に会話はできなかった。先生と親しく話すことができたのは1957年、私がフルブライト留学でニューヨーク市の癌研究所で勉強していたときであった。運よく研究の成果が出て「ヒトがんの 異種動物移植実験」という題でニューヨーク・アカデミーで発表することになった。先生は「吉田肉腫を用いたがん化学療法の基礎的研究」というテーマで特別講演をなさったように記憶し