吉田冨三記念館だよりNo.6号 -009/016page

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ている。外国人のみの、そして初めての英語による発表で私は緊張し、正直なところ何を話したかも定かでなかった。演壇を下りたところ、先生がおいでになり、「大体よかった。君の教授が英語の発表だからずいぶん心配なさっておられた。帰ったら知らせるよ」とおっしゃった。
 その夜先生と夕食を共にすることができた。先生は戦前ドイツのベルリン大学に留学され、ドイツ語はたいへん堪能だが、戦後医学がドイツ語から英語に急変したので苦労なさったようであった。英語がどうしてもドイツ語のようなアクセントになってしまうので、1語1語辞書をあたり、アクセントを原稿につけて発表されたなどの苦労話をしてくださった。また、カリフォルニアで講演されたとき「日本語はなんと英語に似た言葉だ」と冗談を交えてアメリカの研究者にからかわれたことなど、自身の英語演説失敗談をされ、私の下手な英語の講演には触れられなかった。このへんにも先生の温かい心遣いが感じられる。

がんの化学療法

 先生は常にあるがままの姿を考えるという態度で研究を展開されたのではないか。そのひとつの例が、がんの化学療法は可能かという本質論に迫った議論である。
 吉田先生はすでに吉田肉腫という、ネズミのおなかの中で自由に増殖する腹水を伴った実験系を樹立し、戦争中もネズミからネズミに移植して持ちこたえてきた。この吉田肉腫という貴重な腹水がんのおかげで、がんの化学療法の研究が進み、世界中から日本の基礎研究が注目された。
 56年ごろのことのように思う。私は札幌市で開催された日本癌学会に出席した。当時の学会は鷹揚で、特にシンポジウムなどの特別企画では、発表時間を気にする座長も少なく、著明な研究発表に対し、座長は自由に討論を許した。したがって討論には熱がこもり、人々を刺激し、また興奮させた。その会で、先生は以下のように講演された。
 体に発生した「がん」をみていると、その「がん」は正常な組織の延長のようなもので、正常な組織と連続性を持っている。だから「がん」だけに障害を与え、体になんの害も及ぼさないという療法は考えにくい。しかし、「がん」をよくみると、最終的には「がん細胞」が組織液の中に、極端に言えばプカブカ浮かんでいるようなものだ。これが本来の姿なのではあるまいか。実際、吉田肉腫のように腹水中で増殖する「がん」をみていると、体とは有形のつながりがなく、まったく遊離して増殖しているから、体に対しては一種の「寄生体」とも考えることができる。だから「がん細胞」だけに害を与えて体全体には障害をひどく及ぼさない薬を探すということは理論的に成り立つ。
 吉田先生のこのような考え方は当時奇抜で、講演直後から非難ごうごうであった。そのころがん研究の主導者は病理学者であった。もちろん先生も病理学の教授であったので、医学界の大御所は、「吉田君の考えは、がん病理学の根底を覆すもので受け入れなれない」と強く反対された。さらに「吉田君は近年、アメリカ人が政府からがん研究費の補助を受ける際、素人の納税者にも納得のいく申請書を書くそうだが、それに倣ったやり方である」とまで断言された。
 私はがん研究を始めたばかりでよく理解できなかったが、医学の分野の雲上人が真剣に侃々諤々、論じ合う姿にひどく感激した。
 がん化学療法の研究が四半世紀前から本格化したことから考えると、ずいぶん急速な進歩であったと思う。

むすぴ

 吉田富三先生は戟争中に研究用動物資材が枯渇してきたので実験を最小限に抑え、それまでの世界の化学物質によるがん発生についての文献的考察を思いつき、名著「癌ノ発生」を刊行された。この著作には発がん性化学物質の相互の関連、将来に対する展望と想見などが正確に盛り込まれ、実に現在のがん研究者にも「役に立つ」著書である。生前先生は「役に立つ仕事」ということをしばしばおっしゃった。これは初めから「役に立つ」ことを意識してやるものではなく、結果として「そうなった」、そのような仕事をひとつでもいいからやるようにと教えてくださったものと思う。
 先生はまた、若い研究者に対し考え方を否定するような言葉で非難されるようなことはなさらなかった。常に相手のいい点を見抜いて、その持っている能力を最大限に発揮できるようなおだて方が上手で、このような点でも偉大な教育者であったと思っている。

(「月刊がん」編集部の了承を受け2000年10月号より転載)


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