機関誌第3号「AMFNEWS」 -005/008page

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に泳ぎだしました。餌を食べて元気になったと考えてしまいます。

水槽飼育する…この仲間が飼育展示されている水槽の水量は、約1500トンあります。
この水量が十分大きいか、あるいは小さいかは魚を入れてみないことにはわかりません。高速で泳ぐために水槽での激突死もありました。

 そのため水槽内の壁面に空気の泡によるエアカーテンを作りました。その結果これらの魚の壁面への衝突事故は少なくなりました。コンクリートの壁と展示するための透明なアクリルガラスを認識させるための「エアカーテン」は役に立っているようです。

 生物を飼育する上で今まで述べてきたことは、必ずしも科学的ではありません。推測と飼育係の勝手な感情と判断があると思います。生物の言葉が解らない飼育係が、一つ一つの生物の生命を敬い、生きる躍動を感じて飼育展示するには、試行錯誤と小さな変化を見つける力、感じとる力が大切と思います。

 「飼育の生態学」とまでは言えませんが、水槽をご覧になるときこの仲間の行動を見る手助けになればと思います。

(飼育展示課 薦田  章)

潮目のトンネル

人と潮目の海の歴史(第1回)

貝塚

大畑貝塚の断面
大畑貝塚の断面

 福島県いわき市の大畑台地に次のような伝説があります。
「その昔、ここにダイダラボーという大きな男がいて、毎日湯の岳に坐り、手を伸ばして照島近辺から貝を採り、身を食べていたが、その貝殻を捨てたのが積もり積もって塚となった」と『新しいいわきの歴史』にあり、『いわきの伝説と民話』にも同じ内容の記述があります。
この「積もり積もった」塚というのはアクアマリンふくしまの近く、大畑台地にある大畑貝塚のことで、このような伝説は日本各地に散在し、海岸沿いの場合には「ダイダラボー」、「ダイダラボッチ」や「手長足長」という名の巨人と「貝塚」が結びついて語られています。

 一体、これは、どういうことなのでしょうか。恐らく、昔の人々は以前から「貝塚」の存在に気づいており、目の前に横たわる不可思議な貝の地層を、かつて巨人が住んでいた痕跡として納得しようとしたのでしょう。
故に、「貝塚」が正当な評価を受けるには、1877年のモースの大森貝塚発見を待たねばならなかったのです。

 今回、「ヒトと潮目の歴史」というテーマで「貝塚」を取り上げるのは、ヒトが「人」と漢字で表意される前から、人間は海を最大限に利用してきた歴史がありそれを先にも述べた大畑貝塚を通して探っていこうと思ったからです。

 「貝塚」とは、貝殻や様々な生物の骨、土器や石器、人骨まで命を失ったものすべてが積み重なった、縄文時代のごみ捨て場であり、墓地としても使われていた場所でもあります。
では、約4000年〜3000年前の大畑貝塚から、どのような出土品があったのでしょうか。

 まず、名前の由来となった貝類が一番多いのは想像できると思います。シジミやアサリ、サザエやアワビなど現代人の好みに似た貝の殻が大量に出土しています。
また魚類では、サメ類の骨が最も多く、次にカツオの骨が続きます。他にはマダイ、クロダイ、マグロなどで、イルカ、クジラ、アシカ、アザラシのような海にいる哺乳類の骨も発見されました。

 外洋に面している地理的特徴から、沖の潮目の海に集まる魚の出土が多いのですが、これらが発見されるということは、「食べていた」ということにつながります。
貝塚からはシカの骨や石器で作った様々な漁具も発見されたのですが、それらは、材質が違うとはいうものの、ほぼ現代の様式と変わらない形をしています。
しかも、近隣の寺脇貝塚からは材質を補強するための結合式釣針や独特な形の離頭銛も発見されています。
ということは、大畑の縄文人たちは丸木舟で出航し、現代にもつながる精巧な漁具を使って釣ったり、突き刺したりして沖の潮目の海に集まる魚等を捕り、海の幸を堪能していたと考えられます。

 このように貝塚を調べれば、海とともに生きた縄文人の様子が想像できます。そんな情報の宝庫、「貝塚」。動きのある生物の展示とともに、このような往古(いにしえ)の遺産も当館のオセアニックガレリアに展示されています。
皆さんも、是非、来館なさって、実際の貝塚をご覧いただきたいと思います。

(学習交流課 真壁 敬司)


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