福島県植物誌 -001/483page

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福島県植物研究史

1.明治以前

 人と植物とのかかわりは,古くからきわめて密接な関係にあって,衣食住のすべてを植物に頼っ てきた。植物の有用度は経験と伝承によって得ていた。学問としては江戸時代からであろう。江 戸時代になり,戦乱はおさまり,徳川家康は文教を奨励した。慶長12年(1607)儒者,林羅山が 長崎で中国の本草書『本草綱目』を得て,家康に献上した。本草綱目は李時珍が中国の薬物知識 を集大成した本で,薬木・薬草に関することが大部分を占めている。その記述は「釈名」(別名を あげてその出典を注記し,名称の由来や字義を注記),「集解」(薬物の産地・形状・鑑別・採取), 「正誤」(薬物についての本草家の論争。時珍の見解),「修治」(薬物の調整加工法),「気味」(薬 物の性質・有毒・無毒),「主治」(薬物の効能についての諸説・出典),「発明」(時珍および諸医 者・本草家の薬効諸説),「附方」(処方),「附図」からなり,薬用植物を知る上に大いに役立った。 医者ばかりでなく,儒者も学識を広めるために本草を学ぶようになり,本草綱目の和訓本も出版 された。そのほか,多くの本草書が渡来した。そこで日本の本草研究者は中国の本草書にある薬 物は,日本の何にあたるかの研究を行い,日本の本草学に発展した。しかし福島県からは名のあ る本草家は出ていない。

 輸入薬用植物の需要が多くなり,わが国に自生する薬用植物を山野に求めて採薬が行われるよ うになり,本草の知識が必要になって,中国の本草書だけでなく,貝原益軒の『大和本草』など 日本本草書が重宝した。輸入薬用植物の自給をはかるため,幕府をはじめ,諸藩で薬園を設けた。 会津藩では,寛文10年(1670)藩主の別荘に薬園を設け,幕府から下付されたオタネニンジンの 栽培をした。白河藩主松平定信が老中となり,寛政2年(1790)官園の薬草種苗の頒布を許し,薬 草栽培を奨励した。会津藩では寛政年間(1789−1800)本草家,佐藤成裕を招いて薬草栽培にあた らせた。佐藤成裕(1762−1848)は中陵と号し,諸国を巡って,天産物を採取し調べていた本草家 である。米沢藩の嘱を受けて天産物を調べたとき,寛政5年5月26日吾妻山の頂上をきわめ,ハ イマツを見てその生態を適切に観察記録している。寛政9年(1797)『中陵漫録』に記述したのが ハイマツに関しての最初のものであろう。

 本草は,元来薬物となる自然物の記載学であり,薬用植物の研究が主である。中国の本草は日 本産のどの自然物にあたるかの検討が行われ,薬物の漢名と和名の照合が本草学の一大分野とな


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