福島県植物誌 -002/483page
り,名物学が成りたち,殖産興業政策は有用植物の野外調査の方向に進み,物産学が成立した。物 産会と称し有用植物の展示が行われた。こうして,日本の本草は漢方医学的な薬物研究と博物学 的研究の二つの流れが生じた。
薬用となる植物が山野にあることがわかり,白河からは附子(オクトリカブトの塊根を木灰に つけ減毒したもの)を江戸に出し「白河附子」として名声をあげた。会津産のものも白河を経由 して江戸に送った。シラカワブシAconitum aizuense Nakaiなる植物名ともなった(現在オクト リカブトに統合)。そのほか,黄蓮(オウレンの根茎),黄柏(キハダの樹皮)など産出した。薬 用のほかでは,望陀皮(シナノキまたはオオバボダイジュの樹皮からとった繊維)など採集した。 各藩が自藩の用を主とし,戦略上の重要物質は藩外に流出するのを拒んだ。殖産興業のため有用 植物の栽培を積極的に奨励した。会津藩では特にウルシの栽培を奨励し,役人を置いて管理統制 した。当時の名残りとして,現在山野にウルシ,キリ,アミガサユリなどが野生状態で見られる。
幕府は「諸国物産お尋ね」という布令を出し,諸藩の動植物および鉱物の産物目録を提出させ た。各地に「風俗帳」や「産物帳」が残っている。会津藩では領内のすべてをとりまとめた「新 編会津風土記」(1809年刊)にその主なものがのせられている。
日本の本草は漢名の和名対照が研究された影響により,日本植物のすべてを漢字で表すように なり,誤った漢名を使用したりするため,混乱をきたした。日本にない植物の漢名や当て字も多 く植物名を判断するに苦しむのも少なくない。
自然物の研究は次第に有用,無用にかかわらず,目につくもののすべてに及ぶ博物学の傾向が 高くなった。貝原益軒の『大和本草』(1708年刊),寺島良安の『倭漢三才図会』(1713年刊)は 和漢の名が共に書いてあるので調査に役立ったと思われる。植物の漢字名はこれらの著書による ものが多い。また貝原益軒の『花譜』(1694年刊)は園芸植物の形状,和漢の名称などを記述して いるので園芸植物を知るのに役立ったであろう。伊藤伊兵衛の『花壇地錦抄』(1695年刊)その他 の著書,島田充房の『花彙』(1765年刊)その他の園芸書の影響により,日本在来の植物に関心が もたれ,藩主や高禄武士または豪商は植物の斑入,縮葉,帯化,倭生などの奇品を求めるように なった。本県に自生するオモト,ヤプコウジ,シュンラン,イワヒバなどの変りものに名称が付 され観賞された。三春の滝桜(ユドヒガンの枝垂)が三春藩によって保護され,それと同種のも のが中通りに多いのもその現われであろう。
東北地方は,しばしば寒冷気候によって,飢饉に見舞われ,餓死者も多数出している。このよ うな時,山野の草木を食用にした。食,不可食,有毒,無毒の識別は必須知識であり,その食経