福島県植物誌 -003/483page

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験は「カテモノ」と称し言い伝えられた。しかし本県では,口伝えだけでこれ等に関する書籍と なったものは見当らない。

 江戸時代の末に,長崎でオランダとの通商が行われるようになってから,オランダ商館にス ウェーデンの医師Thunbergが来た。日本で採集した植物について帰国後『Flora Japonica』 (1784)を著し,日本植物に学名を与えた。この本はすぐには日本には伝わらず,48年後来日した Sieboldによって,はじめて日本にもたらされた。Sieboldに教えを受けた者は少なくなかったが 本県関係者では植物に関して教えを受けたものは見当らない。

 江戸時代後期(嘉永年間)に会津藩校日新館医学寮では,師範の大山嘉蔵,つぎに杉原外之助, 日下順葊によって本草を講じたという,詳しくは伝わっていない。その頃用いられた『本草綱目』 が残っている。

 明治以前の本県の植物研究は従来の本草の域を脱しなかった。

明治以後

 矢田部良吉(1855−1899)は,1876年アメリカ合衆国ニューヨーク州コルネル大学の留学をおえ て帰朝し,東京開成学校教授となり,1877年東京大学理学部教授・植物園事務担任となってから, 近代的な植物学が行われるようになった。矢田部は松村任三(1856−1924)と共に,日本各地に旅 して植物採集をし,日本の植物相の解明につとめた。本県内では,1879年8月飯豊山に採集した。 その採品の一つ,イブキゼリはMaximowiczによってCarum holopetalum Maxim.(1886)と命 名された(現在は北川政夫によりTilingia holopetala(Maxim.)Kitagawaコイブキゼリ)。ま た松村任三が磐梯山で採集したキクバクワガタの一変種は,後に牧野富太郎(1910年)により Veronica schmidtiana Regel var.bandaiana Makinoバンダイクワガタと命名され,同時に採 集した巨大オタカラコウを基準標本として,後に中井猛之進(1944年)はシズオタカラコウと命 名した。

 このころ植物研究者は矢田部を中心に集まり,1882年東京植物学会(1932年日本植物学会と改 称)を創立した。その会の発起人の一人に会津出身の大沼宏平(1859−1927)がいる。大沼は外国 語学校を卒業し,東京大学医学部に進みHilgendorfやDoderleinなどの生物学講義に感動して 植物の研究を決意したという。郷里福島県の植物については,特に研究しなかったが,駒場の農 科大学において植物の同定やドイツ語の教授をした。ドイツ語が堪能であったので,スイス国 チューリッヒ大学教授植物学者Schroter一行やドイツ国Kunth,ヤナギの専門家Enander,植


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