福島県植物誌 -077/483page

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 鈴木貞次郎と鈴木偉吉(貞次郎の2年年上の義理の叔父、後に清水家の養子となり改姓)は 棚倉町の私立中学校白毫学院の生徒だった頃、金山瀬戸原にあった貞次郎の父の別荘の池 でカヤツリグサ科の植物(あとでビャッコイと判明)を採集し、かねて学院の西山尚徳教頭の 紹介によって、教えを受けていた福島師範学校教頭の根本莞爾にその標本を送った。 そのとき同時に送ったほかの標本はすぐ名前を知らされたが、それだけは名前が知らされず、 何年かたってからビャッコイであるとの知らせがあったという。しかもそれは根本莞爾 の助手、中原源治が猪苗代湖畔の戸ノロ原で発見したということである。それで2人は大いに 驚き、さっそく鈴木傳吉が福島の小学校長、星大吉とその次男の清と3人で戸ノロ原へ行き、 ビャッコイをさがしたが、金山瀬戸原のカヤツリグサ科の植物と同じものは発見できなかった と、鈴木貞次郎の話である。結局、中原源治が当時名前が不明のため下積みにしていた 金山瀬戸原の標本を、自分が1904年8月に戸ノロ原で採集した名前のわからない標本と誤って いっしょにして牧野富太郎に送ったことがわかった。鈴木達が瀬戸原で採集した標本 をまとめて、その包紙に産地と年月日を記入し、各標本ごとには記入しなかったのが 中原の誤りのもとになったらしい。
 前述のように、昭和28年頃になってビャッコイの生育地がわかり、再発見の植物と してにわかに何人かの学老や研究家がビャッコイについて報告している。それらと 多少重複する点もあるが、あらためて記述する。
 ビャッコイの生えている所はすべて清水がわきでる所で、水温は冬暖く、夏冷く、 年間を通じて温度較差がごく少ない(12℃〜14℃)。水底は小石まじりの砂利質、 水深は約10cmがほとんど限界でそれより浅く、流れがゆるく、葉先きや花穂が空中に でる程度がもっとも有利で、その方が植物体が丈夫でよく開花結実する(図41)。 流れがはやいと、沈水型となり、茎や葉が細く、花がほとんどつかない。 1年間の水温の較差が大きかったり、水底にどろがたまる所には生きられない(図40)。 1日のうち半日くらい日が当たる所がもっとも生育がよい。清水がわく場所からの小川にも ビャッコイは続いて生えているが、200mくらいまでで、それ以上には生えない。 水温や土質が適さなくなるためであろう。ビャッコイの生える所はオランダガラシも よく生え、後者の方が優勢で、そのまま放置しておいたため、ビャッコイが圧倒されて 全滅した所もある。

 鈴木貞次郎長男、貞雄談金山瀬戸原は平地林の雑木林であったが、開墾されて大部分は 水田になり、一部は金山の祖父、鈴木栄一郎の別荘になった。地元ではその一帯を開墾場と 呼んでいた。別荘には大中小の3つの池が相接してあり、家屋も大小2軒あって、 両方とも炊事や宿泊ができるようになっていた。父、貞次郎は金山村に生まれ、 後に隣村の古関村番沢の親類へ養子に行き、私はそこで生まれ、小学校6年生のとき、白


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