ふくしま文学のふる里100選-005/30page
後藤宙外(ごとう・ちゅうがい)
慶応二・一二・二三〜昭和一三・六・一二、秋田県生。田園生活実行のために明治三四年から明治四〇年まで、福島県北会津郡湊村大字赤井戸の口(猪苗代湖西岸)に居住、終焉の地としても同じ場所を選んだ。
志賀直哉(しが・なおや)
明治一六・二・二〇〜昭和四六・一〇・二一、宮城県生。白樺派の代表的作家で、小説の神様といわれた。相馬のことを書いた随筆に『稲村雑談』(昭23、24)、『少年の日の憶ひ出』(昭34)などがあり、ともに祖父が関わった相馬事件にもふれている。
荒正人(あら・まさひと)
大正二・一・一〜昭和五四・六・九、相馬郡鹿島町生。本籍地は同郡中村町(現・相馬市)。教師の父の任地が転々としたので幼少時は千葉、山形、長野、鳥取県で生活。評論集『負け犬』『市民文学論』『宇宙文明論』等。
加藤楸邨(かとう・しゅうそん)
明治三八・五・二六〜平成五・七・三、東京生。昭和七年、水原秋桜子の弟子となり指導を受ける。昭和一四年に第一句集『寒雷』を刊行、翌年には俳句雑誌『寒雷』を創刊した。
島尾敏雄(しまお・としお)
大正六・四・一八〜昭和六一・一一・一二、横浜市生。本籍は相馬郡小高町で父母はそこの出身。愛妻との葛藤を私小説風に綴った代表作『死の棘』の第五章『流棄』や、自伝的エッセイ『忘却の底から』などでも小高を描いている。
69 会 津 節
後藤宙外
小説 明治三六年(一九〇三)
押切川に沿う熱塩村の湯治場には、豪農の娘でありながら一七歳で家出をし、今では馬追いとなって皆に自慢のノドを聞かす阿吉(四二、三歳)がいた。
ある日、夫のところに、地元出身で東京で出世している友人長谷山が訪ねて来る。長谷山は戊辰の役で妻や老母を殺した深い悲しみを語り帰京するが、阿吉は彼の前で悲しい会津節を美声でうたうのであった。
この小説には、宙外の、戊辰戦争の悲劇に対する共感や、会津の人々へよせる暖かい心情がよく表されている。他に小説「獨行」(明41)でも宙外は福島県南部から北部を描いている。
79 祖 父
志賀直哉
小説 昭和三一年(一九五六)
旧藩主相馬子爵の家令であった祖父志賀直道は、明治三九年に八〇歳で死去した。
直哉は東京の相馬藩邸の一角に住む祖父母のもとで育てられ、維新後の藩の対応や相馬事件等に関わった祖父の姿を間近に見ている。
この小説はその祖父の五〇回忌にあたって、その姿や人柄を、日記、書簡、思い出、父からの伝聞等を駆使し実証的、文学的に描出している。
81 第二の青春
荒正人
評論 昭和二一年(一九四六)
「絶望を知り、深淵をくぐり、虚無の世界をかいまみたわたしたち三十代は、そのゆえにこそかえって、この人生をいっそういとおしむことができるのである」。太平洋戦争が日本の敗北によって終わった。米軍を中心とした連合国軍が日本を占領し、米国式の民主主義が戦前、戦中の軍国主義にかわって政治や国民生活に推し進められた。敗戦前の暗く自我の抑圧された暗い時代を過ごさねばならなかった二〇代を「第一の青春」とし、戦後の民主主義の主張される時代を迎えた三〇代を「第二の青春」だと荒正人は呼んだ。この評論は第二次大戦後の日本の文学や思想界をリードした雑誌『近代文学』第二号(昭21)に発表。「世代」論争を巻き起こした。
84 まぼろしの鹿
加藤楸邨
俳 句 昭和四二年(一九六七)
吾妻嶺がここに噴く湯ぞほととぎす
この句を含め、一八句を「吾妻の夏」として載せている。人間探求派とよばれて来た楸邨の第一〇句集で昭和二八年から四一年までに制作の句を集成している。句集題は良寛の句に刺激されたもの。楸邨は昭和二八年七月に福島、土湯、裏磐梯を旅行している。
彼は一〇歳のとき、父が原ノ町駅長となったので原町小学校に転校して来、一三歳で卒業するまでを福島ですごしている。
85 いなかぶり
島尾敏雄
小説 昭和二六年(一九五一)
思無邪(しむや)は、おばあさんのたくさんの孫のなかでいちばんかわいがられていた。満ち潮の海辺で二人は波にさらわれそうになる。「波はどんどんふくれ上って来た……そこは、はたてであった。小さな丘が海の真上でぶち切れていた。丘の鼻は日に日に風雨や波濤に蚕食(さんしょく)され、真新しい崖肌をあらわにして、そそけだっていた」。白昼夢のように危機はあっけなく去るが、思無邪の心のなかにその時の恐怖感は、少年の日の原体験として深く刻み込まれた。そして、村の少女おキイとの不器用な性の目覚め。毎年夏休みを海のある小高町の祖母の家で過ごした作者の追憶が、青い走馬灯のように投影した小品。
86 死霊
埴谷雄高
小 説 昭和二一年(一九四六)
「三輪與志が郊外にある××風癩病院を数度にわたって訪れなければならなくなった用件と云ふのは、彼の嘗ての親友で、またその後、兄の知人ともなったらしい或る不幸な、孤独な精神病者の委託についてであった」。
小説の冒頭に登場する青年與志は、黙狂で刑務所からこの病院に移された矢場徹吾を訪ねて来た。與志の兄三輪高志は秘密にみちた人物、その友人で「首ったけ」と自称する首猛夫が矢場と同じ刑務所から出て来た第一日目の午前から夕方までの中を、延引と続く未完の長編小説。戦後文学を代表する最大の思想的観念小説で、昭和二一年雑誌『近代文学』に発表。第八回日本文学大賞受賞。
87 近代文学論争
臼井吉見
評論 昭和二九年(一九五四)〜昭和三二年(一九五七)
明治以来の日本における文学をめぐる代表的論争を紹介しながら論評した著作。特に文学論争という特異な世界を扱ったものとしては、戦後文学中の嚆矢的(こうし)な仕事といわれる。昭和二九年雑誌『文学界』一月号から昭和三二年一二月号まで四〇回連載。第一回「逍鴎論争」から第一四回「形式主義文学論争」までが『近代文学論争・上』として刊行、版を重ね絶版。下巻は未刊のまま昭和五〇年に上・下合わせて筑摩叢書として再新発刊された。著者は戦後の名編集者として活躍、多くの新人作家を発掘した。
98 たった二人の工場から
真尾悦子
手記 昭和三十四年(一九五九)
氾濫社は社員がたった二人の印刷兼出版社であった。真尾悦子とその夫で詩人の倍弘(まさひろ)は極端な貧困と病弱な身体にも屈せず力を合わせて「月刊いわき」を発行、いわき地方に小さな文化の灯を点し続けた。詩人三野混沌や会計さんこと諸橋元三郎たちも登場する。「石造り