ふくしま文学のふる里100選-007/30page

[検索] [目次] [PDF] [前][次]

ふくしまを訪ねた文学者たち

ふくしまを訪ねた文学者たち

松尾芭蕉 (まつお・ばしょう)
寛永二一〜元禄七・一〇・一二。伊賀上野に生まれ、藤堂氏の近習となり、俳諧に志す。俳諧に高い芸術性を賦与し、蕉風を確立した。各地に旅して多くの名句と紀行文を残している。

正岡子規 正岡子規 (まさおか・しき)
慶応三・九・一七〜明治三五・九・一九。伊予松山生。本名常規。江戸以来の月並俳句を排して写実を主とする俳句革新と、古今調をしりぞけて万葉調を尊ぶ短歌革新の二大事業をなしとげ、また、小説界でも漱石や鈴木三重吉を生んだ功績がある。

宮沢賢治 宮沢賢治 (みやざわ・けんじ)
明治二九・八・一〜昭和八・九・二一、岩手県花巻生。詩人・童話作家、農業改良指導者。銀河空間にまで広がるイメージの世界と法華経信仰から来る深い人間愛は人々を魅了して止まない。


1 おくのほそ道
松尾芭蕉
紀行  元禄一五年(一七〇二)

 元禄二年(一六八九)三月二七日、門人曽良(そら)を伴って江戸を発ち、奥羽・北陸を経て大垣に至る二四〇〇キロ、七ヶ月に及ぶ旅に出た芭蕉は、四月末に本県にさしかかる。
 まず白河の関を訪ね、風の音に※1能因法師が訪れた古関への思いを詠んでいる。
  西か東かまづ早苗にも風の音
 ※2須賀川では相楽等躬(さがらとうきゅう)のもとに七泊。そこに集まる地元の連衆と席をもつ。また等躬の屋敷の一偶に隠棲する僧可伸(かしん)に関心を寄せる。
  風流のはじめや奥の田植歌
  世の人の見付けぬ花や軒の栗
 須賀川を発ち、乙字ヶ滝を見物し郡山に入った芭蕉は、万葉集にも詠まれた※3歌枕・安積山、そして安積沼や花かつみを尋ねて歩く。
 二本松の黒塚を経て福島に入り、※4河原左大臣源融(みなもとのとおる)の歌にある文知摺石を見に行く。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 さらに医王寺、大鳥城を訪れ、義経に忠誠を尽くした佐藤継信、忠信兄弟をしのび感涙を流している。
  笈(おい)も大刀も五月に飾れ紙のぼり
 飯坂温泉に泊り、雨もり、蚤蚊に責められて眠られず、持病さえおこった芭蕉は、馬の助けをかりて桑折から伊達の大木戸を越え、「道路に死なん、是天の命なり」と、気力をふり絞ってさらに旅を続ける。


*1都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(後拾遺集)平安時代に能因は白河の関を訪れ、右の歌を残している。
*2須賀川には、可伸庵跡や十念寺に芭蕉の句碑がある。また、芭蕉記念館も建てられている。
*3安積香山影さえ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに(万葉集巻一六)
 「古今和歌集」で紀貫之は、この歌はわが国の歌の父母だと言ってから「安積山の道」は「和歌の道」を指すようになった。
*4みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに(古今集)文知摺石は福島市山口の文知摺観音にあり、この石で布を染色したなどの言い伝えがある。

2 はて知らずの記
正岡子規
紀行  明治二六年(一八九三)

 子規の明治二六年七月一九日から八月二〇日までの奥羽旅行記で、県内は白河、須賀川、郡山、本宮、杉田、黒塚(二本松)、満福寺、福島などについての記事がある。
 福島では、信夫文知摺(「涼しさの昔をかたれ葱摺(しのぶずえい)」)、飯坂温泉(「夕立や人声こもる温泉の煙」)を訪れている。近くの医王寺には関心を示しながら、体調が悪く、訪問を断念して、桑折に出ている。
 この後、子規は仙台、松島、大石田、最上川、酒田、象潟、秋田、黒沢尻、水沢と行き、そこから汽車に乗り、上野に着いている。

4 宮沢賢治歌集
宮沢賢治
短歌  大正五年(一九一六)

 宮沢賢治の歌のなかに、大正五年七月以降の作として、「福島」という題がつけられた次の歌がある。
  ただしばし群れとはなれて阿武隈の岸にきたればこほろぎなけり
  水銀のあぶくま河にこのひたひぬらさんとしてひとり来りぬ
  しのぶやまはなれて行ける汽鑵車のゆげのうちにてうちゆらぐなり
 この頃、賢治は盛岡高等農林学校の二年生で、七月から十月の間、東京でのドイツ語夏季講習会、同級生との長瀞・三峰地方旅行、学校の見学会(仙台・福島経由、山形)などに出かけているから、そのいずれかの途中福島に立ち寄ったときの作であろう。これらには若き賢治の悩みと孤独感が色濃くあらわれている。

[検索] [目次] [PDF] [前][次]

Copyright (C) 2000-2001 Fukushima Prefectural Board of Education All rights reserved.
掲載情報の著作権は福島県教育委員会に帰属します。