ふくしま文学のふる里100選-008/30page
斎藤茂吉(さいとう・もきち)
明治一五・五・一四〜昭和二八・二・二五、山形県生。医者であり歌人。『つゆじも』『童馬漫語』等の作品がある。
泉鏡花(いずみ・きょうか)
明治六・一一・四〜昭和一四・九・七、石川県生、本名鏡太郎。金沢出身。小説家。『婦系図』『歌行燈』などの傑作を残した。
幸田露伴(こうだ・ろはん)
慶応三・七・二三〜昭和二二・七・三〇、江戸生。明治二〇年代の四大作家(鴎外・紅葉・逍遥)の一人。浜通りを南から北へ旅したことを記した紀行文『うつしゑ日記』(明30)もある。また史伝『蒲生氏郷』(大14)にも福島のことが記されている。
若山牧水(わかやま・ぼくすい)
明治一八・八・二四〜昭和三・九・一七、宮崎県生。明治四二年詩歌雑誌『創作』の編者となり、同年刊行の歌集『別離』により激賞される。生涯に約六千九百首の歌作をなし、十五冊の歌集を出した。
飯尾宗祇(いいお・そうぎ)
応永二八〜文亀二・七・三〇、室町末期の連歌師、当時第一等の地位である宗匠となり、各地を旅行しながら連歌の普及につとめた。著名な『新撰菟玖波集』を猪苗代兼載の協力で編さんした。
5 あらたま
斎藤茂吉
短歌 大正一〇年(一九二一)
森鴎外の文章の「次第に璞(あらたま)から玉が出来るやうに、記憶の中に浄められて、周囲から浮き上がって、光の強い力の大きいものになってゐる」といったこと等を頭において、歌集に『あらたま』と名付けたと「あらたま編輯手記」で述べる。「璞」とは掘り出して、まだみがいていない玉を言う。作者には第一歌集『赤光(しゃっこう)』があり、これは第二歌集。歌論の「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」写生説を深めた集、大正五年七月父の病気を見舞った帰途、瀬上に住む歌人門間春雄(もんまはるお)を訪問して吾妻山に登った。この集に収めた「故郷。瀬上。吾妻山」の連作はこの時のものである。
山こえて二夜ねむりし瀬上の合歓(ねむ)花のあはれをこの朝つげむ
霧こむる吾妻やまはらの硫黄湯に門間春雄とこもりゐにけり
6 飯坂ゆき・白羽箭(はくうぜん)
泉鏡花
紀行・小説 大正一〇年(一九二一)明治三六(一九〇三)
『飯坂ゆき』は大正一〇年に飯坂温泉を訪ねた時の紀行文である。
『白羽箭』は、若い詩人・新三郎が会津若松を訪ね、古城・鶴が城を詩にしようとするが、なかなかできない。しかし女神摩利支天の加護によって作詩する力を回復するという筋である。文中には城跡はもちろん、野郎構、湯川がでてくる。明治三六年『文芸倶楽部』に発表、大正四年には単行本となった。鏡花文学特有の幻想性には乏しいが、明治の会津をよく描写している。
32 突貫紀行(とっかんきこう)・遊行雑記
幸田露伴
紀行 明治二〇年(一八八七)明治三三年(一九〇〇)
明治二〇年八月二八日夕方、福島に到着した幸田露伴は東京へ帰る汽車に乗るために郡山まで歩いた。その途中本宮で休んだことが『突貫紀行』に記されているが、二本松、郡山間での作句「里遠しいざ露と寝ん草まくら」が露伴という号の由来となった。『遊行雑記』(明33)は、松川浦の地理、美しい地形、風情についての詳しい記述がある、
47 酒 の 歌
若山牧水
短歌 大正一五年(一九二六)
つばくらめちちと飛び交ひ阿武隈の岸の桃の花いま盛りなり
など、瀬上、飯坂、福島市街で詠んだ歌一三首を収めた歌集。
旅と酒と歌を愛した若山牧水は、大正五年と大正一五年とに福島市を訪れ宿泊している。
とくに大正一五年一一月には天野多津雄を頼り三春町も訪れ、山田屋旅館に泊まっている。旅館中庭には
時をおき老樹のしづく落つるごと静けき酒は朝にこそあれ
の歌碑がある。同旅館には「牧水の間」も残っている。
49 白河紀行
飯尾宗祇
紀行 応仁二年(一四六八)
関東に下っていた連歌師の宗祇が、白河の関を訪ねたときの短い紀行文。白河城主の結城直朝の招きによる。「関にいたりては中々言の葉にのべがたし。只二所明神のかみさびたるに、一方はいかにもきらびやかに、社頭神殿も神々しく侍るに、今一かたはふりはてて、苔を軒端とし紅葉をゐ垣として、正木のかづらゆふかけわたすに……」とあるのを見ると、この「二所の明神」は現在の白坂の関明神の様子を思わせる。旗宿を訪ねたのか白坂を訪ねたのかは不明である。巻末の連歌の発句には「袖にみな時雨をせきの山路かな 宗祇」とある。宗祇は芭蕉も尊敬した人で、この宗祇の白河紀行は芭蕉の『おくのほそ道』の旅の先がけとして芭蕉の胸中にあったであろう。なお白河市内には「宗祇戻し」があって、芭蕉もこれを見ている。
乙字ヶ滝
文知摺石
医王寺