ふくしま文学のふる里100選-009/30page
西山宗因(にしやま・そういん)
慶長一〇〜天和二・三・二八、江戸初期、談林派の創始者である。はじめは連歌所宗匠となったが、のち自由活達な談林俳諧の新風をおこした。宗因を迎えた風虎は俳諧を好み、宗因や北村季吟らと交わりが深く、その編著『桜川』は今に残る初期俳諧集として知られる。
大町桂月(おおまち・けいげつ)
明治二・一・二四〜大正一四・六・一〇、高知市生。福島を記している紀行文には、他に『常磐の山水』(明40)、『白河の七日』『白河の関』(共に大7)、『会津の山水』(大10)などがある。
結城哀草果(ゆうき・あいそうか)
明治二六・一〇・一三〜昭和四九・六・二九、山形県生。安達太良山を詠んだ歌に『山塊』(昭24〜29)がある。
田山花袋(たやま・かたい)
明治四・一二・一三〜昭和五・五・一三、群馬県生。本名録弥。自然主義小説家『蒲団』『田舎教師』等の作品がある。
大岡昇平(おおおか・しょうへい)
明治四二・三・六〜昭和六三・一二・二四、東京生。小説家。『俘虜記』(昭27)、『野火』(同)、『レイテ戦記』(昭46)などの著作がある。
長塚節(ながつか・たかし)
明治一二・四・三〜大正四・二・八、茨城県生。小説『土』(明45)を刊行。短歌『鍼の如く』(大3〜4)の歌人として知られる。二本松出身の歌人で医師の久保猪之吉博士に結核の治療を受けた。
ノーマン・メイラー
大正一二・一・三一〜、アメリカ生。一貫して社会批判的な作品を発表、『鹿の園』『夜の軍隊』等。
50 陸奥松島一見記
西山宗因
紀行 寛文二年(一六六二)
この紀行は俳諧師の西山宗因が寛文二年(一六六二)に行った松島見物の短い旅行記である。京都を出て、七月末、勿来の関からいわき市平に入り、城主の内藤義泰(俳号風虎(ふうこ))の接待を受けたのち、風虎と共に八月半ば平を出発、相馬の中村を経て、仙台から松島に至った。天下の名勝を賞美したあと、帰りは福島、二本松、三春からいわきに出、しばらく滞在し、九月末出発して、白河の関を通って江戸へ向かった。
いわきでは、勿来の関、野田の玉川などの名所を案内され、また城主風虎の別荘地の景勝を楽しんだ。もちろん、その間に俳諧の席にも出たであろう。
52 阿武隈川水源の仙境/甲子温泉行
大町桂月/結城哀草果
紀行 大正七年(一九一八)/昭和十一年(一九三六)
桂月が奥州に名高き阿武隈の水源を求めて、家族で一夏二〇日間余りを甲子温泉に過ごした紀行文。甲子八八滝や巨岩の紹介などが臨場感にあふれている。
『甲子温泉行』は同じく白河を紹介しながら、滞留浴泉した甲子温泉のすばらしさにふれた紀行文。甲子温泉が、阿武隈川の源流が甲子山の麓で二つに分れている奥に湧きでる温泉だと地理的に紹介されたあと、甲子山も白河楽翁公(松平定信)の「白川へ到りて甲子の山見ざらんは孔子の門を過ぎて堂に入らざるがごとし」という言葉をひいて紹介されている。
53 棚倉百勝詠歌集・ある訪問
田山花袋
短歌 明治二六年(一八九三)大正七年(一九一八)
わが国自然主義文学の代表者である花袋は明治二六年、二二歳の時、亡き姉の夫である石井収(棚倉郡長)宅を訪れた。その時、町の名勝百を選んで歌を詠んだ。
いさましきこえとめくれは陸奥の黒駒多したなくらの里(棚倉馬市)
『ある訪問』は、以前棚倉を訪ねた際、神社の娘に婿入りするために見合いしたが、不調に終わったことを、二五年後再訪の地で思い出し、懐旧の情に浸るというもの。
66 保成峠・磐梯愁色
大岡昇平
随筆 昭和二八年(一九五三)昭和三一年(一九五六)
『南柯紀行』(明44)の著者大鳥圭介(明治元年、薩長土連合に石筵峠で敗北)への強い興味から母成峠へやって来た作者は、『保成峠』で圭介のことと母成の地理・歴史のこととを詳しく記している。他に河上徹太郎も圭介の調査でこの地を訪れ、随筆『中の澤温泉』(昭30)を書いている。
『磐梯愁色』(昭31、改題『檜原』)は、安達多良の尾山の一つ母成峠から檜原へ敗退していく大鳥圭介の眼に、果たして磐梯が愁色を帯びていたかどうかを確かめようとするもの。初出『文芸春秋』には略図があった。なおこの二つの随筆は歴史事実を記しているため作者は小説として分類している。
91 隣室の客・青草集
長塚節
小説・短歌 明治四三年(一九一〇)明治三九年(一九〇六)
家事手伝いの女性と関係してしまった若い主人公が、母の指図で平潟の港の宿に移転させられるが、隣室の女性客が過去のことを思い出させるので、遂にそこの宿も出ていくという、繊細だが弱い心をもった青年を描いた小説。勿来の関、平・関田の浜・小名浜などの海岸が描写される。
未刊歌集『青草集』(全四三首)には、長塚節が明治三九年六月末に療養のため出かけた平潟港をはじめとして、平を中心とする浜通りを経て、同年八月中旬の白河に至るまでに詠まれた歌が収められている。
97 兵士たちの言葉
ノーマン・メイラー
小説 昭和三四年(一九五九)
アメリカの反戦主義作家ノーマン・メイラーは、昭和二一年に進駐軍の炊事班長として、いわき市小名浜に居たことがある。「彼は海岸をもっと北へ行った、小さな港町に駐屯している部隊へ配属された……彼は、例のいまひとりの炊事兵と一緒の部屋で、何年このかたはじめて比較的ひっそりと生活することができた。港町は美しかった」。『ぼく自身のための広告』のなかに収められたこの短編小説は小名浜を舞台としたもの、彼の傑作『裸者と死者』にもそこでの体験が投影して重要な影響を与えているという。「小名浜の美しい海岸の印象は忘れられない」と彼は今も懐かしむ。
外国人が福島県を描いた作品としては他に、イサベラ・バード『日本奥地紀行』、ドナルド・キーン『日本細見』などがある。
甲子高原
母成峠
小名浜港