ふくしま文学のふる里100選-019/30page

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南湖公園南湖公園

白河の小峰城白河の小峰城

兼載自筆の「八代集秀逸」兼載自筆の「八代集秀逸」


51 花月草子(かげつぞうし)
松平定信
随筆  文政元年(一八一八)
花月草子
 定信が幕府老中を辞し、白河に隠居したのち、好きな学問や風流世界のことなどを書きつづった随筆集である。地元関連の記事は少ないが、安積沼(郡山)の花かつみを論じ、能因の「こも」説を排し、「かたばみ」説を打ち出している。

 他には、家中の学者に編集させた『白河風土記』『白河古事考』があり、これには古来謎とされた白河の関を、旗宿の関の森と考証させている。また隠居後の日常を記した『退閑雑記』があり、飯坂紀行など地元に関する記事が見られる。


65 新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)
猪苗代兼載
連歌集  明応四年(一四九五)

 文明二年(一四七〇)応仁の乱を避けて関東に下った心敬や宗祇の連歌の席に加わったのを機に、心敬を師と仰いだ兼載は、心敬と共に白河を経て会津に至り、そこで心敬から連歌の奥儀を伝授された。のちに京都に上り、宗Iの後をうけて連歌師最高の位である宗匠に就いたのは三八歳の時であった。

 『新撰莵玖波集』全二〇巻は、明応四年(一四九五)猪苗代兼載が宗祇を助けて編み、後土御門天皇の奏覧に供した準勅撰連歌集で、室町最盛期の連歌の典型を示している。


82 万葉集
笠女郎
和歌  奈良時代末期
 『万葉集』巻三に笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(おおとものやかもち)に贈った歌の一つに

  陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆとふものを

がある。この真野は現在の鹿島町の真野川流域一帯をさすものであることが戦後に定説となり、昭和三五年、この歌碑が桜平山(さくらだやま)に建てられた。その近くには万葉植物園もつくられ百数十種の植物が集められている。笠女郎は生没年、履歴不詳。家持に贈った恋歌に優れたものが多い。

 このほか万葉集所収の本県関係の歌には、「安太多良」「会津嶺」「安積山」「松が浦」などを詠んでいるもの七首ほどがある。
万葉植物園(鹿島町)

89 露沾(ろせん)公詠草
内藤露沾
俳諧  江戸時代前期

  時は秋芳野をこめし旅の土産(つと)(はせを餞別)

  笠匂へ桃咲関の切通し(勿来関)

  暑くとも萩の葉音や旅紙帳(藤躬へ餞別)

 一句目は芭蕉への餞別句。三句目の藤躬は、須賀川の相楽等躬に対する句となっており、露沾が芭蕉をはじめ江戸俳人たちのパトロンとして、また自らも風雅の世界に遊んだことをうかがうことができる。門人多数、交遊も広く、作品は多くの俳書に見られる。
市原多代女(いちはら・たよめ)
安永五〜慶応元・八・四。俳諧の伝統を引き継ぐ須賀川が生んだ女流俳人。酒造業の家に生れ、早く夫に死別、俳諧を仙台の鈴木道彦、白石の乙二(おつに)師事した。

松平定信(まつだいら・さだのぶ)
宝暦八〜文政一二・五・一三。徳川吉宗の孫、田安宗武の三男として生まれ、白河侯松平氏の養子となる。寛政の改革の厳しい為政者であると共に、すぐれた文学殿様でもあった。南湖を築き農業用水池とし、同時に文学的遊楽地として共楽亭、「一六景一七勝碑」を建てた。また画家・亜欧堂田善を育て、谷文晁を呼び白河だるまの意匠を考案させた。
松平定信

猪苗代兼載(いなわしろ・けんさい)
享徳元〜永正七・六・六。会津芦名の流れの猪苗代城主の家に生まれて出家したあと、心敬や宗祗を師として連歌界で活躍したが、五〇歳のとき関東に帰り、磐城平に庵を結んだ。のち会津各地を巡り、関東の古河に没した。
 郷里の小平潟天満宮には、兼載晩年の自筆「紙本墨書八代集秀逸」があり、県重要文化財となっている。また天満宮、若松の自在院には碑が建っている。

内藤露沾(ないとう・ろせん)
明暦元・五・一〜享保一八・九・一四。本名義英。磐城平藩主内藤義泰(風虎)の二男。兄の死後藩主を息子に嗣がせ、自らは江戸藩邸と平高月の自邸とをかけ、専ら俳諧に親しんだ。家老松賀族之助(やからのすけ)のお家乗っ取りの策動(岩城騒動)を処断したことなども知られている。雫石太郎編『内藤露沾全集』(昭34)は、諸俳書から露沾句を網羅したもので便利である。

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