ふくしま文学のふる里100選-022/30page

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森鴎外 森鴎外(もり・おうがい)
文久二・一・一九〜大正一一・七・九、本名林太郎。島根県生。『舞姫』『雁』『高瀬舟』等多数。鴎外は明治一五年一〇月福島の川定、本宮の水戸屋、若松藤田家に泊。大正三年飯坂花水館に泊と二度来県。

円地文子 円地文子(えんち・ふみこ)
明治三八・一〇・二〜昭和六一・一一・一四、東京生。小説家『ひもじい月日』『朱を奪ふもの』や現代語訳『源氏物語』等がある。

広津和郎(ひろつ・かずお)
明治二四・一二・五〜昭和四三・九・二一、東京生。現実に密着しながら、うちに理想を追及する情熱を秘めた作風が特色。
 父の広津柳浪にも福島市を舞台とした小説『摺上川』がある。

戸川幸夫(とがわ・ゆきお)
明治四五・四・一五〜、佐賀県生。長年毎日新聞社の記者を勤め、昭和二九年に『高安犬物語』で直木賞を受賞。わが国には数すくない動物文学作家として、動物への深い愛情と知識に根ざした特異な作品を書いている。

岩間芳樹(いわま・よしき)
昭和四・一〇・三一〜、静岡県生。小学生の時に福島市へ転住、旧制福島中学卒。社会派の放送作家として活躍、主な作品は『わたしは海』『マリコ』『ビゴーを知っていますか』等。 
斎藤利雄(さいとう・としお)
明治三六・一二・三〇〜昭和四四・八・一六、伊達郡飯野町生。最初に書いた小説は鶴田知也との共同執筆による『町工場』(昭5)。昭和初期には絵や小説や随筆を書いて活躍するが、病気のため帰郷し戦後を迎えた。阿武隈川を愛した土着の農民作家である。
 昭和二七年には、『人民文学』(六月号)に発表した小説『春浅き夜』がモスクワ放送で放送された。昭和五〇年には福島県立図書館で「斎藤利雄展」が開催されている。

松川事件の現場(C)福島民報社松川事件の現場(C)福島民報社
椿館のあった弁天山と阿武隈川椿館のあった弁天山と阿武隈川

椿館のあった弁天山と阿武隈川新飯野橋

密な判決文の検討、批判に基づいて被告たちの潔白を主張したのがこの評論で、後に全員無罪判決をもたらす大きな原動力となった。宇野浩二、松本清張、北条秀司、その他の文学者たちも松川事件に係わる著作を発表している。


15 吾妻の白サル神
戸川幸夫
小説 昭和四二年(一九六七)
吾妻の白サル神
 吾妻山中に一匹の珍しい白いサルがいた。白サルは百匹を越す群のボスとなって、ついには人里まで荒しまわり、山里の人々は「白サル神」と呼び恐れうやまうが、ついに捕まる時がくる。


16 流離の女
岩間芳樹
小説 昭和五二年(一九七七)
流離の女
 長い風雪に耐えて甘美な果実をつける梨の木のような女であった、たかおばちゃんは、会津の生家を借財のために奪われ、福島市へ移住し仲間町から阿武隈川の向こうの村へ、そして郊外の笹木野の原野に移って苛酷な開墾労働に耐えながら果樹栽培に情熱を燃やす。「たかと家族たちは、明治十六年の春になっても帰らぬ吉本を深刻に案じながらも、新境地笹木野の一角にとりついて、萱場梨の成長を待って懸命に働いたのである」。戊辰戦争から福島事件に至る激動の歴史を背景に、吉本嘉一郎への一途な愛を貫き、誠実に生きた一人の女性の生の軌跡が心をうつ。


18 橋のある風景
斎藤利雄
小説 昭和二五年(一九五〇)
橋のある風景
 第二次世界大戦下に、軍事物資を運ぶために架けられた自宅の前の橋をみつめながら暮らして来た私が、その橋を中心にして、阿武隈の自然のなかで営まれる動物や人間の生活をリアルな眼でとらえ、ひきしまった文体で語っている小説である。モデルになった橋は飯野町に現存している。


21 流離譚(たん)・大世紀末サーカス
安岡章太郎
小説 昭和五六年(一九八一)・昭和五九年(一九八四)
流離譚大世紀末サーカス
 『流離譚』は「私の親戚に一軒だけ東北弁の家がある」の書出しではじまる長編で、土佐の安岡家の人々を中心に、幕末から戊辰戦争へ、また明治へと日本の移り変りを述べた壮大な叙事詩というべき作品である。一族のひとり正Dは、明治二〇年代はじめ、梁川町にきて、その頃珍しい医院を開業して、町民の尊敬を受けるまでになる。昭和五一年から五六年まで『新潮』に掲載された。

 『大世紀末サーカス』は飯野町生まれの広八が、一七人の曲芸師をひきつれて、慶応二年から明治二年まで、アメリカ、ヨーロッパを巡業した記録を、広八の日記をもとに記したものである。昭和五八年から五九年まで『朝日ジャーナル』に連載。
 なお飯野町史談会では、広八の日記を復刻、昭和五二年に出版している。


22 蠣崎波響(かきざきはきょう)の生涯
中村真一郎
小説  平成元年(一九八九)
蠣崎波響の生涯
 北海道松前藩家老の波響(名は廣年、明和元〜文政九)は有能な政治家、画家、文人であった。この波響の数奇な一生を描いたものである。松前藩は文化四年(一八〇七)から一四年間は梁川町に移封され、波響も梁川に在住、藩の復帰の運動をする一方、画業に励み、また地方の文人・画人を指導した功績は大きい。昭和六一年〜平成元年まで『新潮』に連載。
蠣崎波響の「鐘馗図」(県立美術館)蠣崎波響の「鐘馗図」(県立美術館)

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