サクシード2中学校国語から高等学校国語へ-077/81page
を取り囲む事実を変えていく自己表現の方法となりうる。
●生徒の文章から●
見ることは、事実そのものを目の前にしてなされる。目という感覚器を通して伝えられた現実の映像だ。私たちは、普通、見ることによって物事を認識する。そして、その認識したことの説明として用いられるものが言葉だ。
見ることが先天的なものであるのに対し、言葉は後天的に備えられる知識である。そもそも、言葉は見たことについての説明の道具として存在する。だが、それも使われていくにつれ、単なる説明の道具にはとどまらなくなっていく。言葉そのものに対してのイメージが築かれ、さらにそのイメージが変化していくからだ。
例えば、一組の夫婦がいるとする。夫婦の間に会話はなく、食事も別々にしている。二人の間に愛情はない。夫婦であるのに、全く「夫婦」に見えない夫婦。なぜ「夫婦」に見えないか。それは「夫婦」という言葉の持つイメージのせいである。「愛情と信頼で結ばれた男と女」という概念は、数多くの男女を「見ること」によって形作られてきている。それが、「夫婦」という言葉のイメージにもなっている。だが、そのイメージを全うしている現実の夫婦は一部に過ぎないだろう。見方を変えて、「結婚という契約で結ばれた男と女」を「夫婦」と考えれば、この二人は紛れもない夫婦である。
目で見えることに嘘はない。だが、見たことをどう感じ、どう説明するかによって、見たものに対する認識は変わる。それを説明するのは言葉である。ルネ・マグリットが、馬をドア、時計を窓と表したのは、見たものに対しての感じ方がそうであったためだ。馬というものの中にドアというイメージがあったというだけのことなのだ。つまり、言葉は見ることによって得られた感情、とらえ方、考え方を反映するものである。見たものに対する認識が言葉とともに変化するならば、そのたびに私たちを取り囲む現実も変化しているはずだ。さらに言うなら、言葉は、私たちを取り囲む事実を変えていく最も効果的な自己表現の方法なのである。
(高校三年生の生徒の文章から)
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