教育福島0001号(1975年(S50)04月)-026page
教育随想
ふれあい
顧問教師のあり方
荒 重冨茂
○某月某日
安高新聞第八十九号の編集会議が開かれた。ちょうど創立九十周年記念行事と重なるので、このことを念頭においての編集会議となった。ブランケット版四頁、発行日は十一月一日と決まったが、特集をどう企画するか、どこにスポットを当てるべきかが論議の中心となった。
第一案は「安高九十年の歩み」を追いながら、改めて安高の伝統を考えてはどうかということ。第二案は記念式典めざして、着々と整備されつつある施設設備の「環境整備」を特集として取り上げること。第三案は「補習授業のあり方」を追求すること。
これらの企画が特集として挙げられたが、第一案は創立百周年記念特集として、十年後の安高新聞に譲ることが決定されボツとなった。
○某月某日
前回の編集会議をうけて、特集記事をどのような形で取り上げるべきか、生徒の意向をどのような形で吸収し集約すべきか、また何面に載せるか、レイアウトを頭にえがきながら部員とともに討論した。
環境問題については、生徒の希望がどう生かされて教育環境が整備されて来たのか、その際、学校側と生徒側のコミュニケーションの場である生徒会はどんな役割を果たしたのか、を追うこと。読まれる新聞づくりのために、徹底した取材に当たることが再確認された。
補習問題の取り上げ方としては、夏季講習を主とした全生徒へのアンケートを実施し、それを基礎資料として効果の挙がる補習はどうすれば実現するかを、教師、生徒ともに考えてもらう材料を提供すること。また新聞部としての方向づけを討論することなど、その後も連日にわたって部員と話し合った。
はじめに本校の新聞部編集会議の一端を示し、このことと関連づけて顧問教師のあり方を考えてみたい。もちろん学校新聞は顧問教師の指導のもとに共同で展開される学習活動の成果(一種の芸術作品)であり、新聞部は学校の広報機関として、学校という共同社会の全体に奉仕する公共的な性格を持ち、生徒活動の中にあって自主性・主体性・自己指導性の強い特色をも合わせ持つ教科外教育活動のひとつであることの確認の上にたって、この指導に当たる顧問教師としてのあり方を反省したいと思う。
まず第一に、顧問教師には根気強い指導力と熱意が必要であるということ。立派な完成品としての学校新聞を作成するのも大切ではあるが、もっとここに至るまでの経過をより重視したい。顧問のすべてがすぐれた技術と経験を持つとは限らない。これを補うものは新聞活動を志向して集まる生徒たちの感覚に共感できる熱意を持った教師の感覚ではないだろうか。
第二に、新聞部の生徒と常に接触することである。あとになってトラブルを起こさないようにするためには、編集会議に参加し企画について指導して原稿への加筆訂正などはなるべく加えないよう心掛けるべきである。特に生徒と常に接することは教師と生徒の心のふれ合いの場をつくり、こと新聞に限らず生徒の持つ悩みから教科指導にまで発展し、更には教師の考え方学校の全体的な姿についても話し合える好機と言える。生徒理解の場として最も大切にしたいと思うところである。
第三は、顧問教師が学校と生徒の両者の板ばさみになって苦労することである。この点はその場合の問題により一概には言えないが、前述した新聞部の性格や特色と、「学校という小さな社会にある真実をみんなに訴え、あとに残すんだ」という姿勢を立脚点にして、一部技術的な指導より全般的助言に重点をおいて努力すべきではなかろうか。
最後に、「教育」を考えるとき、忘れてならないのは、われわれ教師がつねに生徒との人間的接触を深め自由な対話を持つようつとめなければ、いっかは生徒からも見放されてしまう、ということである。
(県立安積高等学校教諭)