教育福島0001号(1975年(S50)04月)-028page
教育随想
ふれあい
部活動の中から
長領 節
私は、本校の教師になって七年目になる。六年間の過去を振り返ったとき生徒たちに、一体どのようなことをしてやったのだろうか。今までやって来たことが正しいものであったかどうか、反省させられる今日このごろである。
しかし、中学校の部活動の指導を通して、人間としての生き方、教育のあり方の一端が、改めて心の中に刻み込まれたような気がする。
部活動の指導に当たって来たこの年月、いろいろの思い出があるが、手の負傷にもめげず、三試合も連投し、周りの人たちをびっくりさせたS君や、三年間毎朝六時に起床、四キロメートルを、南湖公園まで完走したA君らの姿が浮かぶ。とりわけK君の思い出は印象が深い。
K君は、いつもチームの先頭に立って練習に励んでいたが、体が疲れると訴えたので、医師の診察を受けるようにすすめた。その結果は心臓リューマチで、すぐに入院しなければならないとのことであった。もともと野球の好きな生徒で、二か月の入院生活はとてもつらかったらしい。その間、同じ部の友だちは、入り替わり立ち替わり彼を見舞った。
彼は退院すると同時に、郡大会に出場したい一心で、主治医の許可を得てくれるよう私に頼むのであった。
医師の許可はなかなかおりなかった。彼の父母も出場させたくなかった。しかし最後は、みな彼の熱意に負けて大会に彼を出場させた。彼は四番打者で、試合に勝つためには欠かせない存在であるが、一方、本人の健康をひじょうに心配した私の気持ちは複雑であった。試合は強敵Y中との対戦であった。彼は思うように活躍もできず試合は終了した。健康でさえあればと彼はしきりに残念がっていた。
卒業近くなってKの父親が突然たずねてきた。Kは栃木県の野球の名門校S学院に進学し、野球を続けたい希望を持っているのだが、「S学院に行かないように、先生から話してほしい。」とのことであった。彼の父は、Kの健康がS学院の生活に耐え得るかどうかが心配で、できるならば家の近くの高校に通わせたいと願っていた。
私は本人の才能と強い精神に期待しながらも、両親の心情に同意し、説得することを約束したが、本人の意志は固く、失敗に終わってしまった。
Kは心の中では、親や教師の言うことはきっとわかっていたのであろう。
現在は、S学院の中心打者として、甲子園めざし、がんばっている。病気の方も完全に直って、体は一回りも二回りも大きくなった。本人の努力で病気までも、克服してしまったのだと思う。
今年はぜひ応援に出かけたいと思っている。
K君のこの確固たる信念と自信に満ちた力強い生き方。青春をスポーツに打ち込むこのひたむきな気持ちは、やがて社会に出てからも、荒波に対して敢然と立ち向って行ける気力や根性を培って行くことであろう。
これらの先輩は、帰郷した機会に必ず母校を訪問してくれる。そして近況や、最近の自分の気持ちなどを、教師である私に話してくれる。また後輩との練習やあるいは雑談を通して、自分たちの体得したものを惜しみなく分け与え、激励してくれる。
一つの共通した目標に向って、ひたむきに前進する者どうしに生じる連帯感は、教科指導の中ではまた味わえない教育的な何ものかである。
指導者としてつらいこと苦しいこともあるが、若い彼らとともに喜び、悲しむ部活動の魅力に引かれ、毎日励めることをたいへん幸せに思っている。
とかく「現代の子供は……」という世評に対しても、根性と忍耐力を養いまた友情をはぐくんでいく中学校時代の思い出のためにも、今後生徒たちの成長を願って更にがんばって行きたい。
(白河市立白河中央中学校教諭)