教育福島0001号(1975年(S50)04月)-029page
三年生を担任して
佐藤美代子
教職九年目にして、はじめて三年を担任したのは昨年度のことでした。つい先日、高校へ指導要録の抄本を送ることで三年担任の事務をすべて終えた今、その一年間の思い出を振り返ってみました。
何もわからず、何度同じことを先生がたに尋ね、迷惑をかけたことか。自信のなさから優柔不断な指導をしているのではないだろうか、といつも心配の種でした。しかし、学年主任をはじめ、先輩の諸先生がたは、そんな私を親切に教えてくださいました。おかげで一応中学校課程を一通りこなし、中学校教育のなんたるかを漠然なりともつかめたことで、今後の指導の糧として、意欲を持って新学期を迎えることができた思いです。
この短い一年の間にいろいろなことがありました。
その一つに、A君のことがあります。A君は企業内訓練生として、専門的知識を早く身につけ、親元から離れることで自分の力を試そうという意欲に燃えていました。しかし両親は末っ子で甘やかした彼を手離すのが心もとなかったようでした。彼の希望と、家が留守がちなため、なにかというと欠席がちで、金使いも荒く、派手な行動が身についていたため、家庭から離れ、訓練生としての進路の方が適しているのではないかと考えました。両親、本人とも相談し、訓練生になることに決定しました。しかし、両親は進路を決定してからも、手もとにおきたい気持ちを捨てされず、高校受験希望を申し出てきたのです。そのとき、私は教師として進路指導はどうあるべきか、ということについて考え込んでしまいました。それぞれの道へと進んだ三十七名の進路が各自に適したものであったか、今だに疑問の連続です。
また、B君は希望校への進学が困難で、学力を向上させようと試みていました。しかし能力だけで解決できる問題ではなく、その他本人の生活態度、今まで暮らしてきた生活環境、学級やグループのふんい気等が、いかに重要なものであるか、つくづくと考えさせられたものでした。これらのことを、今後の学級作りに生かすために、こうもしなければ、ああもしなければ、考えだけが先に立ち、それらの何分の一しかできない自分が腹立たしくなる今日このごろです。
そう、C君のこともありました。学区内に福祉施設のある本校では、各クラス数名ぐらい、親元を離れて、施設に入っている生徒がいます。C君は三年のとき入園し、本校に転校して来た生徒です。最初の日の、少しもじっとできない落ち着きのないありさまが、まだ鮮明に思い出されます。短気な面があり自分の気に入らないことがあると、ぶすくれ、腰板を握りこぶしでなぐりつけていたものでした。短気は損気、と気長に指導していましたが、修繕係として、帽子かけを喜んでつけてくれたり、床の穴をふさぐこともしてくれました。文化祭のときには、写生画の展示を夕方遅くまで手伝ってくれたこともありました。
また、卒業生分散会のとき、記念にと作ってくれた千羽づるを一生懸命に折ってくれたのも彼であり、「三年からではなくて、一年からこの学校にいたかった……」と言っていたということを卒業式当日、ある女子生徒から聞きました。そのとき、本当に三年生を担任して良かったとつくづく思いました。
その他、いろいろありましたが、この一年、私にとって学ぶことばかりで与えるものがなかったような気がします。これらを忘れず、今後の指導に役立てて行きたいと思っています。
(会津若松市立大戸中学校教諭)
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