教育福島0001号(1975年(S50)04月)-031page
S子の思い出
鹿野貞子
新学期が始まって間もない通勤バスの中であった。
「先生。K先生ではありませんか。」という女の子の声に振り向くと、そこには、制服も真新しい女子高生が立っていた。紺色のかばんを下げた肩が重そうであった。
「あら、S子ちゃんじゃないの。」
「はい。先生、しばらくでした。おかげさまで、女子高に入りました。」
伏し目がちにそう話す彼女は、めがねこそかけたが、紛れもないS子である。すっかり女の子らしくなったS子を、わたしは、あたりをはばかりながら眺めた。
S子は、わたしの教育経験の中で、忘れ得ぬ教え子の一人である。
A校に勤務して四、五年後、S子たち一年生を担任した。S子は、泣き虫で、個性の強い子であった。一日に一度は大声を出して泣く。そして、いつまでも泣きやまない。かばんを掛けたくないといっては泣き、クレパスがないといっては泣き、わがままな行動や強情さが目立っていた。またS子は、入学以来、わたしの体にいつもからみついていた。真っ向から抱きついて来られるのには全く閉口してしまった。友だちは、S子のことを「だっこちゃん」と呼んだ。わたしは、異常性格ではないかとさえ疑った。そして、S子の生育歴や、家庭環境をくわしく知る必要に迫られたのである。
彼女を分析した結果、次のような問題点を見出した。
○集団生活への恐怖
○母親の愛情欠如
○としよりっ子のわがまま
○強情
など、よく見られる傾向であるが、彼女の場合は、それが強烈なのである。
わたしは、この子に、母親の愛情の必要を感じた。わたしは、S子の冷たい手を握ってやった。抱いてやった。じっと抱いてやると、S子のぬくもりがつたわって来た。時には、ほおずりさえしてやった。意識的とはいえ、すがり寄って来るS子が、とても可愛いと思った。
授業中は、後ろから抱きつき、前で手を組むので、友だちは「バンドちゃん」と呼んだ。
朝は、玄関で、わたしの来るのを待っている。出勤簿に捺印する間、職員室に入って待っている。トイレから出るまで待っている。先生がたは「きんぎょのふん」と言った。
わたしは、こんなに甘やかしていいものか。わたしの教育の方向が誤ったのではないかとさえ思った。しかし、低学年における「膚の触れ合いによる人間関係」というわたしの教育信条はかえなかった。わたしといっしょにいるときの彼女は、とても生き生きとしていた。
ある日、S子の姿は、玄関になかった。ふと見ると、わたしの上ばきがきちんとマットの上に並べてあった。とっさにS子であることを知った。下駄箱のかげからぴょこんと出て来たS子を、わたしは力いっぱい抱いてやった。
「ありがとう。S子ちゃん。」
S子は、さも満足そうであった。来る日も来る日も、上ばきはきちんと並んでいた。時には、全職員の上ばきが並んでいたこともあった。また、そのうち、わたしの手さげを、だまって持ってくれるようになった。わたしは、「もう、だいじょうぶだ。」と、大きくうなずいた。
数日後、無器用なわたしには珍しい手製のぬいぐるみを、S子にやった。S子は、ぬいぐるみとともに、わたしから離れて行った。
それからS子は、学校生活全般にわたって、少しずつ向上が見られるようになった。
その後、A小学校を転出してからはしばらくS子の消息は絶えた。しかしS子が五年生のとき、保健部長として活躍していることをY先生から聞かされ、涙が目がしらににじむ思いだった。
わたしは常に、教育の可能性を信じ女教師であり、母親教師であることに誇りさえ感じている。
すき間風の冷たい教室で待っている一年生のあどけない顔、無邪気な顔を思い浮かべながら、わたしは今、朝の小道を学校へと急いでいる。
(須賀川市立滑川小学校教諭)
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