教育福島0002号(1975年(S50)06月)-005page
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巻頭言
福島県教育庁教育次長平山正秋
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教養とは
一九七〇年の秋といえば、日本の大学生たちの逆襲の季節とまでいわれただけに、そのころの東京の各大学の大学祭のスローガンには、当時の世相を反映した名(?)スローガンがいくつか見受けられたものである。
告発せよ、取り戻せ、不安を怒りへ怒りを力に (駒場祭)
狂気を君の未来に、沈黙を君の存在に、近代の終わり (三田祭)
超克、そして蘇生への飛躍
(目白祭)
逃げもかくれもいたしません、わたしはここで生きています
(駿台祭)
等々、なんとなくこのごろの大学生たちの姿を描写しているものの、そこに知性や教養が果たしてあるであろうか。わたしに言わせれば、かりに教養があったにしても、それは「あの人の教養が邪魔になる。」とか「教養を鼻にかける。」といった類の教養としか思えない。
ほんとうの教養とは何だろうか、と自分なりにまとまったものを持ちたいという願いから、読書の際に目に触れた“教養とは何ぞや”をいくつか書きとめて置いた。ある人曰く、「教養とは流行の衣装のように心の外側につけるものではない。感じる、考える、行動することの原動力である。」またある人曰く、「教養とは知らない世界の大きな広さを知る活力ともなるものだ。」更にまた曰く、「教養とは自分自身の内面的なエネルギーともなるものだ。」
こうしたものがほんとうの教養だとすると、「教養とは学問とか学校教育と直接に結びつく知識をいうのではなく、よりよい生活、より生きがいのある生活を求めて行くための原動力ともなるものである。」というくらいのところに落ちつくのではあるまいか。とすれば、あの有名な新渡戸稲造先生が、旧制の一高校長時代にくりかえし当時の若者たちに強調された
バイタリティー (活力)
メンタリティー (精神力)
ソーシャリティー (社会性の広がり)の三つを融和させたものが、これまた真の教養ともいえるものになりそうである。
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