教育福島0002号(1975年(S50)06月)-009page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

(3)子供の能力にふさわしく、能動的に追求することを得しめる内容である。

(4)子供が、ゆとりを持って、じっくり取り組める分量である。

このように見てくると、これらの諸条件は、指導のあり方の条件でもあることに気づくはずである。教材の精選あるいは精撰の問題は、指導法の精選または精撰と不離の問題なのである。むしろ、この問題は、両者不乗離の原則に立つのでなければならないと言うべきであろう。

教材の適切性の問題は、右のようなしだいにとどまるものではない。実に、教育そのものの適切性を問うことになるであろう。今日の教育、今日の学校教育は、果たして、真に人間の育成に対して適切であるのかという根本的な問いに答えようとする構えにおいて、当面する教材精選の問題に挑戦するわれわれであろうとしなければなるまいと思うのである。

教材の精選の意味するものの究極するところは、単に教科教材のレベルにあるのでなくて、人間の教育の真実のあり方を実現することにつらなるものでなければならない。しかもこのことは、現場教師の誠実真剣な教育実践とその正しい教育評価とが、その根源的な力であることに深く思いをいたさなければならないであろう。

 

二、教材精選への対処

 

前項においても、既に教材の精選にどう立ち向かうべきかについて、触れているところであるが、本項において更に考察を進めようと思う。

(一) まずなによりも、教材の精選の意味するものを深く正しくおさえることでなければならないであろう。前項において考察した事柄は、筆者なりの基本的な考察にすぎない。更に綿密に取り組まれるべきであろう。特に、教材の適切性の条件についてはきわめて一般的な考察にとどまっている。教材の適切性の問題は、子供たちに共通に考察されるべき面を見通すとともに、一人一人の子供の実状に即して見すえられなければならないのである。このようにして教材の精選の意味するものを主体的には握しつつ、われわれは、

(二) 教材研究の深化を図らなければならない。このことに関して、重松鷹泰氏の論説を味わいたい。氏は、教材研究に三つの形があるとする。第一のは、知識や技能そのものの追求あるいは、自然そのものとか、文化の種々相を追求して行くのである。これは、学問や芸術の根底にある人間性の理解を深め、教師自身の人間的成長を実現させるものである。第二は、さまざまの教材を、どのような状況下にどのような系列で、どのような姿で提供するのが子供たちの学習意欲を駆り立て、またその追求の方向を明確にすることになるか、を研究することである。第三は、教材と子供との取り組みに介入し、その取り組み方を追求し、吟味して行くことである。それは授業であり、学習指導そのものである、と述べている。注7 このように教材研究が深化されるならば、当然のこととして

(三) 自校の教育課程の再吟味に当たらなければならない。このことについては、特に、二つの事柄に留意する必要があろう。その一つは、全体として調和と統一がよく保たれなければならないことは言うまでもないことであるが、十分に「ゆとり」のあるものにするのでなければならない、ということであり、第二は、そのことと不可分の関係にある単元のいわば精撰ということである。学習指導要領総則第一の中に示されてある「第二章に示す各教科の各学年の内容に掲げる事項の順序は、指導の順序を示すものではないので、学校においては、各事項のまとめ方や順序に工夫を加え、効果的な指導を行うものとする。」(小・中同一趣旨)の精神がよく生かされるよう工夫することは重要な視点の一つであり得るであろう。

なお、教材精選の基本、子供の側から見た教材精選の視点などに触れた資料として、初等教育資料一九七五年一月号の座談会記事、「教材の精選と指導の重点」の吟味を望むものである。ところで、精選の意味実現のため、

(四) 授業そのものが、精密に構成されてなればならない。紙幅のつごう、その条件吟味は省略せざるを得ない。

 

【注】

1 初等教育資料一九七四年六月号蛯谷米司、授業研究と教材研究右資料七ページ下段から引用。

2 初等教育資料一九七五年一月号村田昇、文化と教材、右資料五ページ上段から引用。

3 右同、五ページ下段から引用。

4 右同資料、高久清吉、教材選択の工夫、右資料九ページ下段参照。

5 右同、八ぺージ,上段から引用。

6 右同、八ぺージ参照。

7 初等教育資料一九七五年六月号重松鷹泰、 「教師の専門性と教材研究」の中から摘録、アレンジしたものである。

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。