教育福島0003号(1975年(S50)07月)-026page

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教育随想

ふれあい

ある恩師の思い出

 

ある恩師の思い出

懸田 弘訓

 

ちょうど二十年前の四月、私はH高校の三年生になった。新しい教科担任の中に、大学を出てすぐに着任された英語の先生がおられた。かなり身長は高く、浅黒い健康そのものの顔だちは男らしいとは言えても、決して美男子というタイプではなかった。教科書の上にチョークボックスをきちんと乗せ両手でしっかりと前に捧げ持って、かなり大きく跳躍しながら教室に歩いて来られる姿は、すりガラス越しにもすぐ分かった。

先生は新卒とはいっても、年齢は二十五・六歳になっておられた。初めて教壇に立たれただけに、それは熱のこもった授業ではあったが、英語がことのほか不得意であった私には、近づきがたい存在であった。

五月上旬の放課後、職員室に近い放送室でラジオから流れる音楽に耳を傾けていたら、突然先生は入って来られた。「聞かせてください。」と丁寧に一言いわれると、今にもこわれそうな小さな古ぼけた椅子に腰をおろして、両手を組んだまま、じっと目をつむって聞いておられた。短い曲ではあったが終わった瞬間、先生は目に涙をいっぱいだめておられた。

「なんて美しい曲だろう、曲名は分かる?」と聞かれたが、私は返答できなかった。それよりも、先生の純粋な心に、私はすっかり驚いていた。

それからというもの、その曲名を知ろうと毎日毎日、聞ける限りの音楽番組を聞いた。そして、ようやく知ることができたのは、二か月が過ぎた七月初めであった。はやる心をやっと抑えて、放課後職員室に先生を訪ねた。

「あの曲はシベリウスの『トゥオネラの白鳥』という曲でした。」

これがきっかけとなって、先生の下宿を度々訪ねることになった。中庭に面した八畳間の静かな下宿部屋には、二、三十冊の本とわずかな寝具以外なにもなかった。これといった話をするでもなく、先生は長時間御自分の勉強をされていたし、私はまた持参していった本をとりとめもなく読んでは、薄暗くなるころ、おいとまをした。それでも毎日のように訪ねた。

夕立ちの激しいある日、先生はぼつりとひとりごとのように話された。

「恥ずかしいことだが、私は浪人生活も経験した。だからありふれた平凡な人間だ。しかし、なにか一つぐらいは他人にできないことができるはずだ。ただ、それが自分に気づかないのだと思う。現在、私は英語の教師をしているので、さしあたって英語を死にもの狂いで勉強してみたい。」と。

「だれでも一つぐらいは、他人にできないことができるはずだ」という先生の言葉は、それ以来私の脳裏から離れなくなった。

教師になってのこの十数年間、私はいつも先生の言葉を思い返しては自問している。生徒の隠れた能力を十分に伸ばしてやれただろうか。わずかな教科の形式的なテストだけで、あたかもなんの能力もない人間として見過ごしてしまった生徒はいなかっただろうかと。

教師の任務は、なんといっても、個個の生徒が自分で気づいていない能力を引き出して自覚させ、正しい意味での自信を持たせ、よりょく伸ばせる方向を指し示してやることではなかろうか。そのためには、まず、教師自身が学識だけでなく、人間的な魅力にもあふれ、生徒を魅了するだけの豊かな個性を持たねばならないと思う。その意味で、私の人生にとって、先生に巡り合えたことは、すばらしく幸せなことであった。

先生は一年おられただけで、私たちの卒業と同時に東京のある大学院に進まれた。それきり心ならずも失礼してしまったが、数年前、都内のラッシュの国電の中で、偶然にも見かけた。しかし、声をかけられる距離ではなく、とうとう見失ってしまった。私は心の中で叫んだ。先生の教えは、今までもそしてこれからも、私にとって大きな支えですと。

教師という職業の恐ろしいほどのすばらしさと、その責任を、ひしひしと感じている。

(県立安達高等学校教諭)

 

 

 


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