教育福島0003号(1975年(S50)07月)-027page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

二年間を顧みて

戸嶋真紀子

 

付近に雪の点在する道を只見からバスに揺られて、つつじが丘分校に着いたのが二年前の四月であった。日中は春らしい暖かさなのだが、夕方になって伊南川を渡って吹いてくる風は、まだ膚を突き刺すように冷たく、周りの景色とあいまって厳しい立地条件を感ぜずにはいられなかった。秘境とさえ言われる只見に自分が赴任することになろうとは、その年の三月まで夢にも思わなかったのである。とにかく、私はそこで正式に教員としての第一歩を踏み出したのであった。

その前年も、産休補助という形で教職に就いてはいたが、期間が短く、学校や生徒に慣れ学校の事情がわかりかけたと思うころには、もう次の学校へ転勤しなければならなかった。だから私にとってはつつじが丘分校の生徒が長く接しられる初めての生徒たちであった。

親しげに話しかけてくる生徒たち。かえって小人数のほうが自分の思うように教育できると思い、私の胸は希望に燃えていた。全校生男女合わせて五十数名。生徒の顔と名前を覚えるのにたいして時間はかからなかった。一人一人をよくは握できる。実習では個別指導が行き届くし、中学生のとき学習習慣がほとんど身に付いていなかった生徒たちの指導が容易だった。

へき地のため、教材は近くで入手しにくく、わざわざ若松まで出向いて購入しなければならないものもあった。しかし、作品ができ上がったとき、自分のものができたんだ、自分で仕上げたんだ、という満足感に充ちた、生き生きとした生徒の表情を見ると、それまでの苦労も吹き飛び心の底から喜びがわき上がってくるのだった。

楽しいことばかりではなかった。言葉、考え方、習慣の違いに戸惑い、悩むことも多かった。また、小規模校で農業科ということで、さまざまな作業が行われたが、そんなときも、私は家庭科担当なので関係ありません、という顔はしておれず、慣れない農作業について逆に生徒に教わることもあった。冬期間の、連日の雪掘り作業も思い出される。つつじが丘を離れた現在、教室での授業より、生徒とともに体を動かした農作業、校庭の除草、温室や校舎の除雪のほうが鮮明に私の脳裏にもどってくるのである。また、生徒会の資金集めのための薬草採集、収穫祭の準備、町の産業文化祭出品作品準備などの際のかれらの働きには、目を見張るものがあった。普段の授業中と比べて実によく動き、見直すことが、度々あった。

山の生活に関しては、かれらのほうが教える立場にあった。それまで山菜など見向きもしなかった私が、その味がわかるようになり、調理法を知り、いくつかの種類の山菜を覚えた。

全く貧弱な設備の中で、指導力の未熟な私が、果たしてどの程度指導できたであろうか。時には、交友関係、クラスの問題、クラブの問題等について相談を受けることもあった。かれらを納得させ、力づける指導ができたであろうか。学ぶことの多い試行錯誤の毎日だったように思う。

生徒との接触に私は、現在では考えられないほど、多くの時間を費やしていた。あまり度々接し過ぎたために教師と生徒が慣れ合いになり、礼儀に欠けると思われることもあり、授業にも甘えがあったように思う。機械的に授業を進めるのはもちろんいけないが、ただいたずらに長く、ひんぱんに接するのもよいことではない。接し方、つまり方法が大事なのだと反省している。

山間へき地という立地条件、職員も僅かという中で、指導面で悩みながら私自身も変化していった。今までのようにだれかを頼ったり、甘えたりすることは許されなかった。自分との戦いであった。そして私は、なにものにも挫けぬ強じんさを備えていった。

この四月、私は現在の勤務校に移った。素直な生徒たちにこのまま成長していって欲しいと願い、新しい生徒たちとの真の触れ合いを求めて努力していこうと思っている。

(県立猪苗代高等学校教諭)

 

教育随想

ふれあい

 

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。