教育福島0003号(1975年(S50)07月)-030page

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教育随想

ふれあい

やっと話してくれたK君

 

やっと話してくれたK君

泉沢サチ子

 

ある日の反省会の時間に、机のふたをわたしに投げつけて、ドアをけ飛ばして飛び出した上、五日間も休んだK。

あのささいな言葉がこんなにもKの心を傷つけたのだろうかと、わたしは本当に考えさせられた。

このKは、五年生になるまで、学校では話をしたことがない子供である。五年三組担任のわたしは不思議な気持ちのまま、しばらくKの毎日を見守った。

母の話では、Kは内気で家庭貧困のため劣等意識が強く、その上入学式のとき、とんきょうな声を出して大笑いされたことなどが、話をしない大きな原因らしかった。

このとき以来わたしは、この子を学級集団の一員として一日も早くみんなの仲間に入れてやりたいと思う気持ちが強くなっていくのを感じた。

わたしは、子供たちを互いに励まし合い、助け合う子供にしたいという念願から、学級経営の一つとして、作文や日記などを入れた学級通信を出していた。

自分の作品が友達や親に紹介されることや、日記に書き込むわたしの評が子供たちに喜びとうるおいを与え、今なおわたしとの文通が絶えない。わたしも、個人尊重の上に立つ教育が大切だ、と考えていたので、この試みに誇りすら感じていたのである。

Kの作品もぜひ通信に載せたくて、何度も期待したがその材料はなかなか出てこなかった。しかし、わたしは根気強くKの指導に取り組んだ。子供たちにも、Kを学級の一員として親切に接するように、と声をかけてきた。

そうしているうちに、社会のテストや提出物から、Kは社会科が得意であることを知ったので、おりにふれてそのことをほめ、励ますようにした。

あるとき、学級通信で、Kの社会科のテストが三位に昇格したことを発見(いよいよ時が訪れた。今度こそKにも自信を持たせられる)と思うと、つい「やったぞ。」と叫びたい気持ちになったのである。

学級通信の話し合いとなり、いつものように努力者の中に、Kの名前も当然発表された。

「三番がK君です。」とわたしが言うと、学級中に驚きと感嘆の声が上がり他の児童にも増して拍手がわいた。

「K君、がんばったね。先生が思っていたとおりだね。皆さん、K君はね朝早く起きて草苅りをしたり、乳牛の世話をしたりしてから学校に来るのよ。それでもこんなによい成績なのよ。ほめてあげましょう。」話をしているわたしの目からは涙が流れた。教室はしーんとしてしまった。「さあ、みんなの仲間に入りなさい。みんなが待っているんだよ。」と心の中で話しかけて握手をしてやろうとしたとたん、Kは机のふたを投げつけたのである。

しかし、あとで思えば、このほめ言葉がKの心をゆさぶったのではないだろうか。

欠席が続くので心配のあまり、三日目に四年生の弟に聞くと、「うちの手伝いだよ。草苅り忙しいんだ。」

「兄ちゃん、おこっているかしら。」

「ううん。」というわけである。

よかったと胸をなで下してはみたものの、会うまでは不安が消えないものだ。

五日ぶりで登校したKの顔を見て、わたしは話の切り出しに迷った。が、思い切って「ごめんね。みんなの前でほめたりして。」と、わびを言うと、Kは表情を変えず、机の縁を鉛筆でたたいてはいるが、気のせいか口もとがほころんでいるようだった。

Kのそばを離れたわたしは、これでよいのだと自分の心に言い聞かせて、窓の外の景色に目をやった。

その後のKは見違えるほど明るくなり、社会科ばかりでなく、理科のグループの話し合いにも参加し、休み時間には友達と話している姿も見られるようになった。

あんな小さな励ましでも、Kの心を開く手だてになったという喜びが、わたしの胸いっぱいに広がった。

こうなれたのも、学級の和を目指して指導した成果であるとともに、担任した子供たちが、友愛と明朗さに富んでいたからであろう。

これまでの苦労が無駄ではなかったことを知り、子供との触れ合いの大切さをしみじみとかみしめたのである。

(双葉郡富岡町立富岡第一小学校教諭)

 

 

 


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