教育福島0003号(1975年(S50)07月)-033page

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教育随想

ふれあい

七年ぶりの学級担任

 

七年ぶりの学級担任

和田 健

 

四月のある月曜日の朝、職員室にTという男の生徒が入ってきて、「先生これきのう裏山の畑からとってきました。食べてください。」と言う。それは一袋の山菜でアサズキである。飾り気のない素朴な態度は、べき地の生徒の心情の一面に触れたような感じで、なんとなく心の温まる思いがした。

私が当校に赴任したのは昨年で、今年は二年生の担任である。過去七年間学級担任外として教務を担当し、授業は生徒の一番苦手な数学と理科を指導してきたので、毎日の生活は職員室と教室を往復し、職員室では事務に忙殺されていた。したがって生徒に接する機会も少なく、それほど親和度を増すこともなかった。生徒は私の前を素通りしてゆくような、ある種のむなしさを感じていた。

五月の連休の過ごし方を話し合っていたとき、私は「友人どうしのサイクリングは、楽しく健康的であるし、また友情を深める上で意義があるのではないか。」と説明した。

連休の二日目の四日午前十時ころ、山都町の一ノ木から喜多方市までサイクリングを計画した三人の生徒の訪問を受けた。一人はきまじめな学級委員長のT、もう一人は一日なにか一つは忘れ物をしてくるY、そしてもう一人はヤンチャ坊主のMであった。かれらは家の中をジロジロ見回して、「あまり大きくない家だな……。」「ピアノがあるな。先生弾けんの。」かってなことを言いながら、Mは「兄が喜多方工業高校二年生で下宿をしている。」とか、Yは「叔母が何町にいる。」とか、Tは「今年になって喜多方市に来たのは二度目だ。」とか、昼食をいっしょに食べながら二時間ぐらい話して、三人は町を一回りして元気に帰っていった。

かれらが学校に帰ってから私のことを級友に、どのように話をしたかは見当もつかないし、また三人が山都町の一ノ木から喜多方市の私の家を訪ねたことに、どのような意味があったのか知らないが、そのことがあってから、Yの忘れ物はたしかに少なくなったし、一か月後の現在ではほとんどなくなったMはよほど落ち着きを見せ、ヤンチャさはそれほど気にならなくなり、Tは連絡に職員室に来ても、以前ほど堅さがなくなり、気安く話をしてゆくようになった。多少甘い見方であるかもしれないが、他の生徒たちも親近感を持つようになったような気がする。

ちょっとしたこと=それが触れ合いなのかも知れない。教師のなまの生活を見、アグラをかいて雑談したことは「個別指導」、「面接指導」などという難しい言葉を並べて「なんでも相談に来なさい。」と呼ぶ以上に効果があったかも知れない。

とにかく私としては学級担任から七年間も離れていたため、生徒指導に自信が持てないが、一日も早く「カン」を取りもどして、一人一人の生徒が自らも満足し、他からも認められているという「生きがい」のある毎日を送らせたいと考えている。私は生徒の幸福を願うとき、問題を持たない生徒は極めて少ないと思う。私としてはその障害を少しでも軽減してやることができるなら、生徒は更によりよい方向に進むものと考えている。「膚と膚との触れ合い」などとよく言われているが、私自身できる限り生徒の中に飛び込んでゆく機会を見つけるとともに、生徒が私に近づくことのできるゆとりある態度をより多く持つことが、今後の私に課せられた任務ではないかと痛感している。

(耶麻郡山都町立山都第三中学校教諭)

 

 

 

 

 


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