教育福島0004号(1975年(S50)08月)-029page

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生徒を理解するということ

江尻京子

 

本校では、生徒指導の充実のために教育相談を重視し、生徒理解を図ろうと努力しています。しかし、定期的な教育相談日を設けても、生徒の自主来談が少ないことと、相対しても生徒が本当のことをなかなか話してくれないという悩みを持っています。

 

生徒を理解するということはどういうことなのでしょうか。そして、その方法はどうあるべきなのでしょうか。Sの例をとって考えてみます。

 

Sは、三年生になってから授業態度が悪くなり、注意に対しても反抗的である。昨年は生徒会長までやったのに今年は落選、級友からもその行動が批判され信用を失っているようである。当然、職員間でも問題として取り上げられていた。

先月の美術の授業で、準備物を忘れてきたというSを教室へ取りに行かせた。帰ってきたSに「あった?」と聞くと、「あんなもの捨てた」と吐き出すような返事、そして、関係のない本をおもむろに出して読むようなそぶり、思わずわたしはその本を取り上げて、頭をピシャリとやってしまった。

突然のことで、しかも大きな音がしたので、Sも一瞬驚いた様子であった。Sに対しても、このクラスの中でも、こんなことは初めてのことであり、自分自身びっくりしてしまった。そのあとわたしは、○去年までの明るく中学生らしいSの印象と、今のSの態度

○この一年は進路決定などで重要な時期であること 〇一時間の授業の大切さと、二度とない今日という日を真剣に生きることの美しさ、をミレーの作品を例にとって話した。

Sは黙って聞いていたが、意外にも大きな涙をポトリとひざに落としたのだ。大きな体のSが急にかわいそうに思えてきた。わたしは、用具を与えて授業を再開した。

 

翌朝、Sが職員室に現われたのを見たとき、昨日からSのことが心にわだかまっていたわたしは、不安と期待とが入り混じった気持ちで緊張した。Sはわたしのところにくると、

「先生、昨日はすみませんでした」と、ぽつりと一言。

「これからはがんばりなさい」わたしもその一言だけ言ったが、Sはそれにうなづいて出ていった。その日一日、わたしは充実した気持ちで授業を行った。

放課後、スケッチブックを持ったSに廊下で会ったので、声を掛けると、「少し遅れたので家でやってくんです」とS。次の週Sはりっぱに作品を完成して提出した。

 

これから、Sがどう変わっていくかはわかりませんが、わたしは、このどこにでもあるようなできごとの中から真剣にしかることの重要さを知ったような気がしました。生徒を本気でしかることは、生徒との触れ合い、生徒理解の第一歩なのかも知れません。生徒も先生の本気さを、本気でしかってくれることを待っていると思います。そのことによって生徒は、自分が認められたという実感を持つのではないかと思うのです。わたしは、それまではSを注意することをためらっていたようです。つまり、わたしはSを知ってはいたが、理解まではしていなかったのです。

 

生徒は対話の中で無意識にいろいろと心を打ち明けてくれます。できるだけ生徒とともに行動し、喜怒哀楽を分け合うことが生徒理解につながると思います。また、生徒たちは、純粋でいちずな目をもってわれわれ教師を観察し、批判し、反応します。口先だけで怒る先生をけいべつし、冷やかし半分で自分の欠点や秘密を職員室で話題にされることに腹を立てます。一度警戒心を持った生徒は、もう決して本当のことを話してはくれません。生徒と同じレベルでの触れ合いの中で生徒の立場に立って生徒を考えてやることのできる教師になりたいと思います。

 

先生は、いつも生徒たちの味方なんだという信頼関係を作ることがなにより大事です。生徒ほど、自分が信頼している、そして自分が信頼されている人との約束を、義理堅く守る人間はいないと思うからです。

(双葉郡広野町立広野中学校教諭)

 

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