教育福島0004号(1975年(S50)08月)-028page

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教育随想

ふれあい

進路指導を担当として

 

進路指導を担当として

鈴木瞳夫

 

就職シーズンになると、「先生、どっかいい会社ありませんか」と進路指導室を訪ねてくる生徒が多くなる。たいていの場合、私は「どっかいい会社ないかねえ」と反問する口調で、意地悪な答え方をする。なにかよい情報はないかとの期待感が初めから砕かれてしまうから、生徒たちは口をとがらせて不満そうな表情をする。

本校では、クラス担任が主に進路相談を行っている。そこで結論が出せないで迷っている生徒が直接進路指導室へ来て、進路係と相談する。真っ正面から取り組むと迷路に入り込む危険性が多いので、体をかわし生徒の反応をうかがう。間の持たせ方が難しいのだが、仕事をしながら様子を見る。生徒は自分の進路に対しては真剣に取り組んでいるから、これだけで腹を立てて帰ってしまう者はめったにいない。なにか口の中でぶつぶつ言いながらもその場にとどまって求人会社からのパンフレットなどを見ている。そこで更に質問してくる生徒は、たいていこちらのペースで進路相談が進む。椅子に座らせて、お茶など出してゆっくり進路に対する希望や悩みを聞く。ただ聞くだけで、無用に生徒を警戒させないよう記録は一切とらない。必要だったら生徒が帰ってからメモする。いろいろ質問し、ていねいに耳を傾けるとたいてい打ち解けて、話し合いができる。

 

一年生のときから学校一の腕力を持ち文字どおりの番長だったS君との何度目かの相談のときである。ふと気がつくと左足に真っ白な包帯が痛々しく巻いてあった。尋ねてみると恥ずかしそうにけがをしたという。自分の部屋のドアを力いっぱい足で蹴ったひょうしに破れたすきまにはさまって、外科医で数針も縫合するほどの大けがだった。既に二月の下旬、就職希望者はほとんど就職先が内定していた。自分一人が取り残されたのではないかという不安といら立ち、その時点ではもう有効な求人先はないだろうという絶望とが交錯し、行き場のない不満がそうした行動となって爆発したのだった。ほとんどの先生がたから見放され、呼び出されるまで相談する相手もない孤独で悩める姿をそこに見た。問題生徒と特別視されているため、一般の生徒よりその悩みは深刻であることが理解された。彼の場合、自己顕示欲が強く、自分のかっこよさをいつも意識して、就職に対しても見栄を張っていた。名の通った一流大企業に就職したかった。理想が大きく、能力がそこまで達していなかったのである。彼との何回かの相談は、彼の夢を一つ一つ崩して現実化していくために使われた。彼の現状を正しく認識させ、彼の能力適性に合った職場(職業)を選択させるのに多くの時間がかかった。

 

M子君の場合は、卒業後の三月まで指導が続いた。公務員希望を断念して民間会社を何度か受験したが、いずれも不採用だった。本人も私たち係も意気消沈してしまった。授業に出ている先生から三年間、一度も彼女の笑顔を見たことがないとの情報が入った。そこでまず進路相談を通して彼女をニコニコ笑わせてみようと試みた。軽い世間話をしながら堅い気分をほぐし、親しみを感じさせるふんい気を作った。何度目かの面接のとき冗談を言ったらとうとう笑った。このことを担任に話すと「彼女は大変努力して笑ったのですよ。私はもう耳にタコができるほど注意してきたのです。やっと笑ってくれましたか」とうれしそうな様子だった。次回の受験では採用が決定した。お礼にと自分の小遣い銭で生花を買ってきて、花瓶いっぱいにさしていってくれた。

進路決定に際して、生徒はいろいろと悩み、その解決のため血のにじむ努力をする。S君の場合は夢と現実とのギャップを埋め、M子君の場合は人前で明るく笑い、人間関係をよく保つことが最大の課題だった。

 

昨年度、進路指導を担当して、クラス担任のとき以上に生徒たちと触れ合う機会を持った。つい先日まで地元就職希望の生徒が、ふとした私の意見が契機となり、県外就職を決心するようになったが、そのときなど、背筋が凍る思いがした。私たち教師の何気ない一言が大きく生徒の心を動かしていることに気づき、教師の仕事の重要性と責任の重さとを再認識させられた。

(県立郡山商業高校教諭)

 

 

 


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