教育福島0006号(1975年(S50)10月)-026page

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教育随想

ふれあい

 

高原の子らとともに

 

高原の子らとともに

遠藤 仁人

 

甲子高原に緑も増し、さわやかな春の風が吹き始めた四月に本校に赴任し早いもので、既に二学期を迎えた。全校生は四十七名。千二百余名の大規模校から転任し、急に小人数の生徒の前に立ったとき、なんとなく家庭的なふんい気に浸ったものである。

今から三十年前、旧陸軍の軍馬補充部用地や演習場だった甲子高原の地に入植した人々の子供たちが多い。自然環境に恵まれ、伸び伸びとした、礼儀や言葉遣いの正しい生徒ではあるが、やはり現代っ子で、物の考え方や話す内容はドライなところがある。

二十一名が私の担任する二年生であり、生徒の多くは、「人数が少なく、校舎は古いが、気の合った友達どうしで生活できることが、大変すばらしいという感想をもらす。

「山菜がたくさんとれますよ」とか「去年の秋のいも煮会は楽しかった」「冬はスキーができます」と、初めての私に対し生徒たちは、これまでの学校生活や自然環境について得意げに話しかけてくる。飾り気のない、素直な生徒たちであり、楽しい生活ができそうな気がしたものだ。

真っ黒で元気のある学級委員のS、ユーモアにたけたN、転校してきたM秀才君のあだ名を持つH、スポーツ万能のKなど、二十一名をそれぞれ個性の強い生徒が多い。

私より一日遅れて、東京の女子私立中学校からMが転校してきた。不幸にも昨年両親を亡くし、小学生の弟といっしょに、叔父をたよって来たとかでMにとっては思いもよらぬ転校だったにちがいない。特に暗い面があるわけではなかったが、両親を亡くしたショックは隠せないようで、全く元気がない。一日でも早くこの地に慣れ、少しでも元気を取りもどしてもらいたいと気を配り、家庭訪問の回数を増やし、本人と語り合う時間を多く作った。

六月も終わろうとするころ、彼女の日記に、「この中学校に来て本当によかったと思う。それは、同級生はもとより、一年生も三年生も皆よい人ばかりですぐ友達になり、相談相手になってくれた。それに先生がたも少ないので話し合いができるし、話をしていても楽しいので、毎日、学校に来るのが楽しみだから」と書いてあるのを読んだとき、やはり時間が解決してくれたな、と思った。

この学校の生徒はみんな、家に帰れば、家事や野良仕事の手伝いを真剣にやる。その勤労を通し、自然の中ではぐくまれた彼らは純真な気持ちの持ち主である。そういう彼らの友情に接しMは、都会っ子にはないよさを感じとったものと思う。

その後のMは、中体連大会には、テニス部の選手として参加し、夏休みのキャンプではリーダーを務め、農場作業は珍しいこともあってか、じゃがいもの収穫に汗を流した。

私自身、本校に来て日も浅く、生徒に対する理解が、もちろん不十分なためでしょう、学級委員のSやNは、なかなか打ち解けず、私に反抗的にあたることもあった。この状態が長く続くようではいけないと心配していたが、生活ノートを記入し始めてから、徐々にではあるが、私との会話にも素直さが出て来たように思う。

私も一人一人の生徒の成長を願って日々、様々な努力や工夫を重ねているつもりだが、そのような願いや努力が生徒にとってすべて。プラスにひびくとは限らない。あるものは、まったくやる気をなくしたり、劣等感を持ったりときには反抗的になったりすることもある。そんなとき、一人一人の生徒との接触の機会を多くすることの大切さは分かっていても、雑用に追われなかなかできない。地域社会の理解を深めるとともに、日記や作文を通し、また様々な学級指導や生徒活動を通した触れ合いの中で、お互いを対等の人間として尊重し合おうとすること、ともに向上しようとする姿勢を持つことなど、このような心構えや姿勢が、生徒に信頼感を起こさせるのであろう。

今後もこの生徒たちとのつきあいの中で、いろいろなことがあると思う。少しでもそれらの解決が、私との結びつきを強めればと思い、努力を続けていこうと考えている。またそれが、今後の私に課せられた課題でないかと痛感している。

(西白河郡西郷村立川谷中学校教諭)

 

 

 


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