教育福島0006号(1975年(S50)10月)-027page

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教育随想

ふれあい

 

進学指導に思う

 

進学指導に思う

田中 晃

 

本校に勤務して以来、またたく間に十年余が経過しようとしているが、この間、本校の特殊性と言えようが、進学指導一事に終始してきたような気がする。もちろん、公立の普通高校として文化祭、校内球技大会等の各種行事も実施され、クラブ活動も平均以上に盛んであるが、こうした諸行事、クラブ活動進行中であっても、その後の授業をはじめとする学習のことが、意識から離れないというのが実状であった

ところで、私が初めて本校に勤務したばかりのころは、進学指導に関する各種資料の整備も不十分で、この面については、ホームルームの生徒や父兄の指導、相談で不明なことが多かった特に学力と志望の大学・学部の合格可能性の関連については、その都度、既に何度も三年生を担当したことのある先輩の先生がたに、種々教えていただく有様であった。しかし、最近では、この種の資料の整備が進み、この問題について言えば、ようやく困惑するということはなくなったような気がする。それと同時に、校内と各種の校外模試の成績だけで考えれば、志望の大学・学部に確実に合格圏に入っていると判断しても、本番の入試で失敗して、いわゆる浪人の道をたどる者が多いということも明らかになってきた。

成績の面だけで判断すれば、合格するはずの者が不合格になり、逆に、合格するはずのない者が合格するという「番狂せ」という現象は、国立大では十〜二十パーセント、私立大では三十パーセントぐらいの割で現れるようである。前者の、「合格するはずの者が不合格になる」という場合は、一見奇妙なことに、家庭でも、学校にあっても、模範的な「よい生徒」の中に例が多いようである。それに、きちょうめんという性格が具っていると、ますます、合格はおぼつかないということになるようである。この逆説的で、父兄教師に不安感を与え、自信を失わせるような現象については、次のように説明できると思う。授業中の態度は良好で、欠席、遅刻はしない、掃除などもサボらない、指示に対しては素直に従う、教師にとってこれほど手のかからない「よい生徒」はいない、ということになるが、見方によっては、このよううな生徒の中には、決められたこと、指示されたことしかできない、全く受動的で、主体性のない者も含まれていて、これらの者に、前記の「番狂せ」が当てはまるわけである。きちょうめんということは、学習の方法とか時間について、形式にとらわれ、融通性に欠けるという一面があるのではないか。模試の成績は、せいぜい十一月末か十二月初めの時点でのもので、入試合格のためには、その後の伸びがより重要なので、受動的で自主性に欠ける者はこの時期にがむしゃらにがんばる気力に欠けるようである。それで、十二月段階の成績面では、合格するはずの者の中から、相当数の不合格者が出ることになる。

最近では、新三年を担当してしばらくすると、このような生徒の見分けがっくようになったような気がする。そして、その素直な性格、真面目な勉強ぶりと、予測される入試の悪い結果を結びつけて、内心ひそかに、哀れさを感じるのであるが、とても半年ぐらいの短期間のアドバイスでは、この問題は解決できないことが多い。しかしほとんど例外なしに、彼らも一浪の後は目的を達成する。私たちの百の説法より、一年間、浪人という逆境を経験しそれに耐え得たということが、効果があるのだろう。元来学習の基本的な部分に欠陥はなかったのだから。

両親や教師の立場から考えて、ときに表面的な素直さを欠くようなことがあったとしても、自主的、積極的で、気力のある者のほうが、入試に成功する率が高いということになる。何をなすにも、健康が肝要なことはいうまでもないので、入試成功の要件の順は、「気力・体力・学力」ということになろうか。

(県立磐城高等学校教諭)

 

 

 


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