教育福島0006号(1975年(S50)10月)-029page
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教育随想
ふれあい
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進路指導その後
菅野恒雄
私たち教師の役割は、個々の生徒が持っている可能性を最大限に引き出してやることにあるとよく言われる。しかしそれが、生徒自身の持っている問題に加え、社会環境の汚染などによって阻害されるとき、教師としての限界を知らされる。その反対に、助言や励ましによってそれが実現されるとき、教師としての喜びをそこに見いだすことができる。
三年間を通して担任したM子は、勉強すればいくらでも理解できるというタイプの生徒であった。機知に富んだ言動やそこつ者の一面は、級友から不思議と人気があった。遠足や修学旅行などのとき、グループから疎外されるメンバーを集めて班長になるのはいつもM子であった。だから生意気ざかりの男生徒も、そういう彼女には一目おいていたようで、決して呼び捨てにしなかった。生徒会長の選挙の際、男子の対立候補がなかったというのも開校以来の珍事であったし、いろんな意味でまさしく「豆ダンプ」のニックネームがぴったりだった。
三年になると、英語と家庭の選択教科となり、M子は後者を選んだ。奇異に思い確かめてみると、「これでいいんです」と一言の返事が返ってきた。このそっけない返答には、真相を窮めようとする前に体をかわされた感じでいっか機会をとらえて話そうと思いながらもそのままに過ぎていった。
M子の学習態度が変わったなと感じられるようになったのは五月も末のころであった。ふさぎこんでいるようでやる気が見られないのである。「M子は最近元気がない」そう同僚からも指摘された。「できるのにやろうとしなくなった」など。
「先生はおらを差別している」そんなことをM子が言っているということを耳にしたのは、そんなころであった
「何が差別か」いささか怒りにも似た気持ちで、私はM子を図書室に呼んだ
「進路について考えると、ゆううつです。自分の進路は自分の意志で決めるのが大切であると先生は言うけれど私にはできないのです。ほんとうは英語が好きですが、就職する者にはどうしても選択しにくいのです。私たち就職組は、やりがいのある仕事をしたいと話し合っています」そんな内容のことをM子は遠慮しがちにぼそぼそと、話し出した。兄弟姉妹が多く、両親が病気がちのため、家計が大変なこと、もう就職先も内定していることなどを話しているうちに、M子の眼から涙がこぼれ落ちた。今までのM子の変化は彼女にできる精一杯の抵抗だったのだ。教師の自分に今できることは何だろうか。
その日の夕方、M子の家庭を訪問した。ちょうど、たばこの収穫期で、M子とその妹たちはなわでたばこの葉を編んでいた。炉ばたに踏み込んで、早速私から話を切り出した。M子をぜひ進学させるように、両親を説得するつもりであった。しかし、特に父親の心は動かしがたいものがあった。
「これの姉らもあげてやれなかった。女は手職でも身につけさせたほうがよっぽど役にたつ。それに○○さんのあっ旋で、もう就職先も決まっているので」その後、いくら訪問しても話は平行線をたどるばかりであった。
育英会の特別奨学金借用を条件に進学を承諾したのは、何回かの相談の後であった。M子の将来をかけた就職試験の結果が不採用になったのである。M子の家の戸口に立つ私の足どりは重かった。しかし、父親の言葉は以外だった。 「先生、もういい。これには進学させるから」これは私への最高のプレゼントであった。
こうしてM子は進学した。その後、医大附属高等看護学院へ、更に保健婦学校へと進んだ。「英語も勉強できないと思ってあきらめていたころを思い出します。ドイツ語をかじっている自分を不思議に思うときがあります」そんなことを書いてきたりもした。
「自分が納得できるやりがいのある職業にっきたい」そう言ってきたM子は今日も自転車を踏んで、各家庭を巡回指導していることだろう。彼女はM県S町の保健婦なのである。
そして今はなきあの父親も、なぜか懐かしく思い出されるのである。
(伊達郡飯野町立飯野中学校教諭)
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