教育福島0006号(1975年(S50)10月)-030page

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教育随想

ふれあい

 

三年生を担任して

 

三年生を担任して

沢田 咲子

 

ある日突然、S子が就職したいと言い出してきた。”全員進学”を目標に勉強させてきたやさきのことである。

この子は、社交性に富み、学校では大変明るい子であったが、父親が違う上に貧しいということもあって、進学か就職か迷っていたらしい。それは、グループ日記で読んだことがあった。

「私は、今のお父さんとはどうしても合わない。家に帰るとけんかばかりしている。夕方、学校から帰る時間になると、なんかしら重たい石が頭からのしかかってくるようで、足が家に向かないのだ。こんな状態でいる今の私には、進学は考えられない」と。その後二、三度話し合ったが、意志は堅く就職した。その彼女から、先輩たちにかわいがられ、張り切ってやっているといううれしい便りがあった。

 

夜半の電話は、遠くの私立高へ行ったKからである。眠い目をこすりながら「どうしたの?今ごろ」と言うと、「だって、つまんなくってえ」である。相変わらず甘ったれた声だ。近くに高校がありながらなぜ遠くのほうへ……

 

K子とI子は「後悔はしません」と看護婦への道を選んだ。その彼女たちを旧友数人と、夏休みも押し詰まったある日訪問した。「自分の選んだ道なのだから、どんなことがあっても、歯をくいしばってがんばるのよ」とホームで見送ってから五ヵ月、ポンポンと飛び出す東京弁を聞きながら、この子たちの進路はこれでよかったんだろうかと。

 

現代では、高校卒の資格は義務教育並みだ。経済の許す限り、どんな子をも進学させたいと思うのは、ひとり親だけではあるまい。それゆえに、寝ても起きても子供たちの進路のことが、頭から離れなかった。

「先生、おれ、将来何になっていいのか、自分でもわからないんだ」と。

考えてみれば弱冠十五歳、自分が何に向いているのか、どの道に進むのがいいのか、男子一生の仕事に足る道は何かなどわかろうはずがない。かといって、三年間随分細かに観察してきたつもりでも、この子に悔いのない一生を、と思うとよけいその難しさが感じられる。

 

実業高校か、普通高校か、でも彼らは悩む。まさに人生第一の岐路である彼らは彼らなりに自己分析し、「おれは文科系だ」「おれは理数系だ」と言って進むものの、中学校の段階では、そんなに容易に進路の決定ができるものでもあるまい。いっどこで啓発され秘められた可能性が発揮されるものかだれも予測はできないであろう。

 

「おれは野球がやりたいんだ。だからその名の通った高校に行きたいんだ」動機はきわめて単純である。中には、

「先生、おれどこでもいいんだ。本当は就職したいんだが、親が進学しろというから行くんだ」という依存型も。

ある程度、学校のランクがあるとはいえ、サラリーマンの家庭では農業高校へもやれないだろう。かと言って、子供たちの希望どおりの受験は現実としては困難なことだ。

 

また「先生にお任せします」というのもある。しかし、これは一番困る。この子の将来が、私の一言で決まるとしたら、これほど重大なことはない。

布団の上げ降ろしにも、大根を刻むのにも、四十二人の子供たちの進路を思うと胸の痛む思いだった。

 

幸い、本校の校長先生は、進路指導において、他の追随を許さぬほど精通している。その校長先生自らの細かい資料分析や、学年主任の温かい助言、ベテラン先生がたの援助等があって、それぞれ希望する高校に全員合格した。しかし、ふと見た新聞の論壇”このどうにもならぬ現実”と題した記事の中には、「実業高校卒であるがための差別待遇を憂え、大学進学を目指して新聞配達をしながら予備校へ通っている」という投書のことが取り上げられていた。

これを目にしたとき、実業高校に進んだ生徒たちの将来について、不安の情がわいてくるのをどうすることもできなかった。

(いわき市立錦中学校教諭)

 

 

 


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