教育福島0006号(1975年(S50)10月)-032page

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教育随想

ふれあい

 

墨染めの衣

 

墨染めの衣

最上 二郎

 

一昨年暮れの話である。四十度の高熱にうなされて伏せっていた私の下へ教え子のHが、よれよれの墨染めの衣をまとって、ひょっこり訪ねてきた。Hはっかつかとまくら元に寄ってくるなり、「こりや知恵熱だ、先生。病気は気の病。心の迷いを断って……」などと、数珠をもんで一しきり念仏を唱え出す。突拍子もないこの教え子のあいさつに戸惑いながらも、私は努めて平静を装い、むっくり起きあがった。なにはともあれ、こういう珍客を迎えるときには、酒に限ると我が家の相場は決まっているので、娘は早速コップ酒を運んでくる。妻は買物に出かけていて留守だったのである。

Hの黒装束を、つくづく眺めまわしながら、五年ぶりの再会がことのほか懐かしく、はずむ話とともに、一升酒も、みるみる軽くなっていく。Hは、京都の花園大学を卒業、妙心寺の禅道場で目下修業中とのこと。

Hを教えたのは、六年生の一年間だけ。純農村の障子窓のある珍らしい学校だった。Hのクラスは、粒ぞろいのわんぱく学級で、山の分校からひょっこりやってきた私など、当初からさんざんでこずらされた。女子だけ授業を放棄して下校してしまうといった事件も、担任一週間日の出来事だった。事の次第は、先生が女生徒に甘いという理由で、Hらに棒でなぐられたというのである。

親たちから、私も校長もざんざんきつい詰問を受けるはめとなる。級長選挙といえば、こっそり裏工作をして、全然統率力のない子をかつぎあげてしまう。ほかの学校の生徒と顔を合わせれば、きっとケンカをおっぱじめるといった有様で、その悪童ぶりは枚挙にいとまがない。

そのころ私は、オヤジ(クマ)というあだ名をちょうだいしていたが、力のあり余るHらを努めて野山に連れ出した。イナゴとりや薪拾いなどの学校行事がまだあった当時のことで、今の学校の状況と比べて、随分指導にゆとりがあったように思われる。

Hの家は、かなり格式の高いお寺で父は住職のかたわら高校で教べんをとっていた。家庭訪問してみると、母は病床に伏せっていた。Hが生まれたころからずうっと寝こんだきりだという。農協に勤める姉が母代わりに、家事一切をきりもりしていた。なるほどHの行動も、こうした家庭環境、殊に母親の愛情欠如による欲求不満のうっせきがしからしめたものと私には察しられた。知能も高い。運動能力に優れ、ソフトボールの対外試合などで大いにその蛮勇を発散させたりはしたが、本人の思い上がりや増長を抑えて、決して甘やかしはしなかった。

Hはその後これといった問題行動はなく、中学から県立の高校へと進学した。そして高校三年のときである。頼りの姉が、婚約者の車で突然事故死してしまったのだ。その前に母が他界していたが、Hにとってこの姉の死は、母のそれ以上に、どれぐらい大きなショックであったか、私のったない慰めの言葉ぐらいでは、とてもその心中はいやされるものではなかっただろう。

Hはまっすぐ花園大学に進学した。父とは随分対立してきた志望校だったが、姉の死は、Hに仏門への道を選ぶ決断を一気に下させたようであった。

さて僧衣のHと談じ込むうち、私の“知恵熱”もどっかへ吹っ飛んでしまったようで、お互いにかなり雄弁になってきた。そんなところへ今度はN医師が応診にやってきた。買物先から妻が電話したらしい。N医師は、かばんを持って突っ立ったきり、あっけにとられている。私は恐縮しながら、めいていのお尻に注射を一本お願いした。その間Hは、数珠をもみながら、なにやら念仏を唱えていた。医師と病人ではなく、医者と坊主の奇妙な取り合わせに帰ってきた妻もびっくりぎょうてん二の句がなかった。

Hの帰りぎわ、老婆心ながら旅費についてたずねてみた。持ち物といったら、数珠以外何もないのだ。Hは、たくばつしながら帰れるから心配ないと言う。「それより先生、早く『七人の侍たち』完成させてくださいよ」。

Hらをモデルに悪童記を書くことを卒業のとき約束したのだった。いまだにおあずけを食わしていたのだが、私はそのとき「墨染めの衣」と改題して書いてみたいと思った。

Hはわらじばきになって笠を手にとると、玄関口で、いきなり私に抱きついて「ウウッ」と一声うめいた。

「しっかりやれよ」

私はそう言って、衣の肩をたたいた。Hはそれっきり、私の腕をすり抜けるようにして、ひょう然と立ち去っていった。私も妻も、若い修行僧のけなげな後ろ姿をいつまでも見送っていた。

(郡山市立桃見台小学校教諭)

 

 

 


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