教育福島0006号(1975年(S50)10月)-037page

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わが市の生がい教育

 

地域スポーツ少年団の育成

原町市教育委員会

 

一、太田地区スポーツ少年団の現況

「弘志、眠いか」「うん眠い」「高子は寒そうだな」「寒いです」二月の朝五時はまだ暗い。恒例の寒げい古に、眠い目をこすりながら、寒風をついて子供たちが太田小学校の屋体に集まって来る。毎朝一時間半、一週間練習して最後に納会を行い、日ごろの練習の成果を試される。伸び盛りの子供たちにはさまった技量の順位などはない。土用けい古の納会から半年間、放課後及び土、日曜の修練の積み重ねのいかんによる。大人の愛好者も、子供たちに混じって剣友会のスケジュールにより練習する。この人たちは、納会に審判やその他の役員を務めてくれるのである。また納会には、父兄総出で公民館でもちをつき、昼には親子、指導員がそろって楽しい昼食をとり、その日の成績について、また次の会の運営について語り合う。

現在は、メンバー四十三名(男子三十八名、女子五名)が参加し、年間約百日、剣道を中心として、ソフトボール、バドミントン、水泳、野外活動等各種スポーツ活動を行っている。このハードなスケジュールを消化できるのは、指導員(団体職員一名、教諭二名一般人一名計四名)に人を得ていることと、家庭及び地域のバックアップがあるからである。由来太田は剣道が盛んで、剣友会の組織もあり、随時振興策を講じてきていた。

二、スポーツ少年団の結成

太田の剣道を振興するためには後継者を育てなければならないとして、昭和四十一年に、学校、家庭の同意を得て小学三年生以上に呼びかけ、剣友会の少年部を創設、参加者二十五名で発足し、基本から教えた。最初は竹刀だけでよかったが、基本が終わればとりしても防具が必要となる。剣友会のメンバーは、かつて青年団等が使ったもので公民館や部落の公会堂に保管してあるものをかき集め、なんとか半数ぐらいはそろえ、交替で着用させることで間に合わせた。しかし、なにせ大人用で寸法が合わないことはしかたがなかった。そのころ教育委員会が、スポーツ少年団の結成を奨励し、野球や卓球などのスポーツ少年団が生れていた。太田剣道スポーツ少年団も同じ年の五月に結成し、事務所を公民館に置いて、指導員も委嘱し、計画的に練習を行うようになった。その当時は隔週土曜日であった。

三、校庭開放事業への移行

このようにして剣道スポーツ少年団の活動が軌道に乗り、団員の数も徐々に増、えてきた。昭和四十七年に、国の補助事業として校庭開放事業があることを知ったが、なにせ一日七時間以上で年間七十日以上と云う厳しいスケジュールを消化しなければならないという条件であった。これを消化できる指導員は、どうしても確保できない。幸い組合長の理解もあり、農協事務所が道場となる学校屋体と隣り合わせで近いこともあって、農協職員の吉田氏が剣道の指導を引き受けてくれたので、ようやく実施に踏み切ることができた。現在もほとんど大部分を、彼が担当してくれている。

四、将来への展望

補助事業でなによりも有り難かったのは、公費で少年用の防具を備えられたことである。育ち盛りの子供に、自費で防具を持たせることは負担が大きすぎるし、すぐ身体が伸びて体に合わなくなってしまう。これで子供たちも喜んで練習に打ち込むようになり、近隣との親善試合などにも勝ってくることが多く、態度にも落ちつきができ礼儀作法も身についてきた。寒い冬の早朝や夏の暑い午後も練習に耐え得た経験は、この子供たちのこれからの人生にプラスになることが多いことであろう。そのことを思うと、ますますこの事業の内容を充実し、発展させていきたいと思っている。

 

 

 

 

 


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