教育福島0006号(1975年(S50)10月)-038page

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福島県教育センターから

 

「福島県教育史」の編さんを終わって

 

昭和四十四年四月、明治百年を記念して企画された「福島県教育史」本巻全五巻、同資料集全十一集の編さん事業は、六か年の歳月を費やし、昭和五十年三月末日をもって完結した。私がこの事業に従事した年月は昭和四十六年からなので丸四年間であったが、長い、苦渋に満ちた歳月であった。

昭和四十四年から昭和四十六年三月まで、就任の年月はまちまちだが、故松崎弘道指導主事と、今井豊蔵先生、事務補助の野崎ユキさんがこの仕事を直接担当した。

私が、新発足した「福島県教育センター」でこの仕事に従事することになった年の三月、今井豊蔵先生は御退任になられた。そのときまでに、資料集は第一・二・三集の三冊が刊行されていた。この二か年間の推移については、私にはつまびらかではないが、故松崎弘道指導主事が、発足当初から昭和四十六年三月まで克明に綴った「編さん日誌抄」を、本巻第五巻の巻末「福島県教育史編さん事業のあゆみ」の中に掲載してあるので参照されたい。何事でもそうだが、いわゆる草創期の労苦のほどがしのばれる。

本県の教育史執筆上で、特に執筆者に執筆上の苦労が多かったと言われるが、それは、本巻執筆のために欠かすことができない資料の収集と検索並びに資料集等の刊行が、本巻執筆に先行せずに、がん行したり、後発したためであろう。

ともあれ、待望の本巻第一巻が刊行の運びとなったのは昭和四十七年三月であった。編さん事務局一同は、全く無形のものから、千三百ページほどの本巻第一巻が、労苦の結果この世に生誕したことに非常な喜びを感じたのであった。

教育史のような本の編さんで、特にそれが何巻にもわたるような場合に、編さん事務局が苦労することといえばまず第一に執筆者が必要とするような原資料(史料)の収集・整備、所在目録等の作成であろう。第二には、執筆原稿の事務局提出期限を執筆者に守っていただくことであるが、これがなかなか難しいことである。第三には印刷業者との仕事の遂行上の調整であろう。

かつて、ぼう大な刊行事業を完成されたM氏に、編さんの苦労をお尋ねしたとき、「それは執筆者、印刷業者とのたたかい闘争である」と言われた。「闘争」というのはいささか穏やかでないが、氏は言葉のあやとして言われたもので、肯繁に当たるものと言えよう。

このような、社会科学としての歴史の記述というものは、歴史的な事実を述べたいわゆる根本史料を渉猟し、客観的明証に基づいて記述し、論証の典拠も明らかにしなければ、歴史科学論述としての評価に堪えないものであるから、その執筆者は斯界の権威者に求められる。そのような人は、歴史学者であるか、教育学者や、その道での研究者、実践家であろう。そのような人人は他に公職を持っておられる人が大部分で、非常に多忙を極めている人々であり、他からの執筆依頼等も多いわけである。また、血の通った人間であって、文章記述機器ではないから、一定速度で仕事が進行するわけでもない。このような人々に執筆を依頼し、期日厳守でせき立てるわけであるから、その実相は闘いということになろう。

印刷業者との調整については、業者は他にも多くの注文の仕事も持っており、また経営の安定のためには、きわ物的な仕事も取らなければなるまい。業者にも仕事の流れがあり、編さん事務局のほうにもそれがある。この両方の流れがかみ合わないことが多いのである。そこで闘いが起こるのである。

また、編集には「校正」というやっかいな仕事がつきものである。「福島県教育史」では誤植の皆無ということを目標に努力した。平常は四校で校了としたが、原稿を校正の段階で全面的に改変したり、入れ換えしたりした場合は、五校、六校までやったこともある。一言に校正というが、単に誤字・脱字等の訂正だけではなく、文章そのものの表現の改変を執筆者の了解を得て行ったり、当用漢字、現代かなづかい、送りがな等を修正しなければならない。これは原稿を校閲する段階で、原稿解析、誤字・脱字の訂正、指定、割付けにおいても行うが、相当広い範囲で、プロット順に配列されないと、執筆者によって、引用資料として同一の表が使われるようなことや、執筆者の記憶違いなどによって年代や会場などが事実と相違する場合、原典の相違によって食い違いがあったりするような誤りは発見されないことが多いので校正の段階で再整序しなければならない。だから校正というのは一見、極めて単純な作業としての苦労のほかに、実はそれに加えて、文意の不明確な文章や文章表現を変えること、文法上の誤り

 

 

 


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