教育福島0007号(1975年(S50)11月)-027page

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教育随想

ふれあい

 

T男との出会い

 

T男との出会い

遠藤信男

 

「先生、お変わりありませんね。安心しました。二時の急行で帰ります。時間ですから一年に二回は帰省して必ず訪ねてくれるT男である。しかもきまって帰っていく直前にしか来ない彼であった。今回はその彼が、珍しく自分以外のことI看護婦希望の生徒がいないか−を聞きにきた。彼は今や他人の頼みをも考えてやれる余裕ができたのだ。彼は完全に悩みから放たれ、力強く歩み始めたのだ。

十年前のT男の生活ノートをのぞいてみよう。「私はどうしてもA高校に合格したい。板書の字は見えなくとも自分なりに参考書で勉強している。だれにも負けたくない。負けてたまるものか。自分にこう言い聞かせている。先天性の弱視、なぜこんなに生まれついたのか。両親からは何も答えが得られない。強く生きたい。精一杯がんばるのだ。不合格だったらどうしょう。先生、力になってください……」

彼の父親と校庭の土手で語ったことを思い出す。両親の悩みは本人以上にひどかった。当時の私にとってできるただ一つのこと、それは「東京○○養護学校高等部入学の説得」これだけだった。こうしてA高校は不合格。養護学校への入学。そして当然来るべきもの 半年もたたないうちの彼の困惑、不満等。「どうしても今の学校で勉強しなくていけないのですか…………」私はこのとき初めて特殊教育への認識不足を悟り、と同時に異様なまで、T男を含むこれらの子への教育に執念を燃やし始めたと言える。

四十三年、国の施策により、磐梯町にも特殊学級設置の気運が高まり、間もなく特殊学級設置が決定した。「たった一人でもいい。それが真の教育だと思う」という私の願いがかなえられたのである。私の脳りには、悩めるT男の熱い映像があった。

専門書を買った。専門書は高かった。雪の降る夜、何回となく家庭を訪ねた、納得してくれた親の願いを胸に秘めて努めて優しく私は言った。「明日から私の学級で勉強しよう。私もみんなとがんばる才。わかってくれるね」涙をこぼしながら承諾した親の気持ちを思いながら、今度は私が涙をこぼした。生徒たちは何も答えない。しまいに声を出して泣き始めた。この切ない記憶は、私だけのものである。無からの出発である。生み出そうとすることの前に立ちはだかる実に多くの壁にしゃ二無二突き進んだ。もちろん周囲の温かい協力があってのことだった。

特殊学級での五年間、それはそれ以前の私の八年間に匹敵する貴重な体験だった。いわく「心のふれあい」である。夜遅く、東京のM子は三十分間も電話で話す。「先生と話すことが楽しい」車で友達を乗せて遊びにくるS男。−「よかった」私は一喜一憂しながら一方絶えず自己に厳しく、「これでいいのか」を繰り返す。

平凡なことである。子供の先頭に立って汗を流す。子供の心に生き、子供のために時間を使う。時間を忘れる教師であればいいのである。ともに歩んでいるH教諭は、いつも私に話しかける。「私たち教師は、学校にいる間だけのふれあいでない、いつでもどこでも心が通じ合っている教育、子供の心に食い込む教育をしたいものだ」と。

ここ数年来、教育は見直され、次のような言葉が叫ばれている。

「教育の原点に帰ろう。教育の正常化に努めよう」この言葉は、いわば今日の教育が大変な反省を求められていることなのである。私たちは、原点と言い、正常化と言い、その言葉のいったい何を自分のものとし、何が実践できたというのか。言葉はいい加減に使われてはならない。使うことに意味あらしめねばならない。教師の意識の変革−生徒のために本当の教育に徹すること。責任であり、情熱であり、実践である。私は特殊教育を通して、その幾分かを知ったような気がする。満たされざるものに対して惜しみなく与え得るひと教育はそのひとに外ならない。

東京のT医院でハリ、きゅうに打ち込むT男が定期便のように訪ねてくることを心待ちにしているこのごろの私である。

(耶麻郡磐梯町立磐梯中学校教諭)

 

 

 


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