教育福島0007号(1975年(S50)11月)-029page

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教育随想

ふれあい

 

知ってもらいたいこと

 

知ってもらいたいこと

篠山雄三

 

定時制・通信制高校に勤めて少したてば、だれしも考えは変わってくるのであるが、一般の先生がたが、定通高校生についてイメージを抱く場合、それはやはり世間並みのものであろう。

去年の定通生徒生活体験発表全国大会の審査貝を務めた読売新聞社々員が定通生徒の生気ある実体を聞いてびっくりし、発表者の家庭や職場へ改めて取材に行ったということだ(高校教育七月号所載)。さもあろうと、私たち定通関係の教師は思う。社会通念を代弁する人物が、定通生徒の実体を知ってショックを受けたというのはむりもない。定通生徒のような日陰的存在は世の中なんだからそれはあり得ることなんだ、ぐらいの気持ちが、定通生徒に対する社会通念なのだから。

定通生徒とは、そんなひ弱な存在ではない、と私はここで言いたいわけだが、彼らすべてに頼もしさを感じているとまで言うつもりはない。教室でも一般のまじめな生徒たちの存在をつい忘れてしまうほど、一部の生徒のために不愉快な思いをさせられることがあるし、極端に学力の低い生徒にいら立つこともある。もっとも、このいら立ちは、教師側の了見によって話が違ってくる。全日制の学校から転勤してきたばかりの数学の先生でも、基礎的な計算ができたことで快さいを叫ぶ生徒を見て、新鮮な驚きとほほえましさを覚えたりするらしいし、英語教師たる私は、中学一、二年程度の単語の意味を聞かれても、おおむね楽しい気持ちで答えるようになっている。そんな質問をする生徒たちは、中学校の授業中おそらくは無に等しい存在であったろう。それが今やゼロに甘んじる必要がなく、気がねなしにゼロ以上であろうとし、極端な言い方をすれば、初めて学習の喜びに浸っているのである。(教科内容の取り扱い方に格段の注意が必要。扱い方によって、授業は恐ろしく無意味かつ暗たんたるものになる可能性がある。それからついでに、定通生徒への印象が片手落ちにならないよう別種の例を付記すれば、全日制、定時制を含めた我が校の現同窓会長は、定時制の卒業生であり、福島市内でも有数の建築事務所を経営する一級建築士である)

少し横道にそれた感じであるが、読売新聞社員に与えたショックの中味は次のような私の身の周りの例によっても一応説明され得るであろう。

例年のごとく今年も、余り明るくない照明の下で我が校の夜間運動会が行われ、職員と、生徒がいっしょになって競技を楽しんだ。そのとき、校庭の暗がりにGという生徒の兄と両親が立っていた。椅子にかけるようすすめたが立ったままGに声援を送っていた。Gはがんばって短距離で入賞したが、千五百米競走では苦しい笑顔を見せて親兄弟の前を走っていった。勤め先に住み込んでいるGは、その夜ライトバンに乗って親兄弟といっしょに本宮の実家へ帰って行った。Gの学校における学習態度はもちろんよい。それが当たり前−というのは、親の愛を受けながら独りで生きるという苦労をなめているからだ。愛とむちにつながっているからだ。愛のむち≠ニは古くて、新しい、いい言葉である。定通生徒の父兄は、子供にあまり関心を持たないのではないか、などと思うことがあればそれは妙な思い上がりでしかない。大部分の生徒たちが親元を離れて生活しかつ素直なのである。つまり愛とむちのあかしを見せてくれているのである。彼らの素直さを見て私は世の中を支えているものは実はこれなんだ≠ニ、心につぶやくことがある。

読売新聞社員の耳に入った生徒の実体例は、一般定通生徒と少しかけ離れた一種のエリートと言ってよい生徒についてであり、実を言って、まだ本物の定通生徒の実体に触れてもらっていない感じであるが、とにかく、徐々にではなく、いきなり頭を下げさせられ彼にとってそれはショックであったろう。

(県立福島工業高等学校教諭)

 

 

 


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