教育福島0007号(1975年(S50)11月)-030page
教育随想
ふれあい
M夫とのこと
佐藤八重
帰宅すると玄関に一通の郵便があった。手に取った瞬間、私は思わず「万歳」を叫んだ。
忘れもしないM夫からの結婚式の招待状である。余白にはM夫の直筆のボールペンの添え書きがあった。「先生、ぼくも結婚することになりました。ぼくは二十歳、K子は十九歳。こんなこと言うと、のろけているみたいですが、K子は、ぼくよりも人間がずっとずっとうわてです。いい人と巡り合わせたと思っています。先生、必ず来てください。待っています」
当時と変わらない、たどたどしい文字だが、偽りのない言葉がうれしかった。
M夫は、私が前任校で学級担任をした生徒である。粗暴で、なにか問題が起こると必ずといってよいほど、なんらかのかかわりを持つといった生徒であった。学校では、このM夫に関する指導事例を研究し合い、指導についての共通理解をもってきたが、とりわけ校長先生、教頭先生、担任のS先生の心労は大変なものだった。
その彼が三年生になった。担任のS先生は一身上の都合で退職され、その後任が私であった。それまで、一年生を担任していた私は、予期しなかっただけに、かなり動揺した。それまでの学級に対する愛着もさることながら、M夫が所属する学級ということがまず抵抗であった。けれども、その気持ちも、かなり快く薄らいだ。それは、校長先生に見せられたM夫の手記のせいであった。
「おれは今月(三月)になって一度も学校を休んでいない。山学校もしていない。でも、みんなおれのことを遠巻きに眺めている。おれが、なにかやらないのを珍しいとでも言うような顔をして……でも、佐藤先生は、おれのことをさんづけで呼んでくれる。だからおれはあの先生に会うとうれしくなる
特に意識して接してきたわけではなかったが、この手記は私に決断を与えた。
こうして、M夫の学級担任としての学校生活が始まった。M夫には、まったく白紙の状態で接したが、彼も他の生徒と同様に別段変わったふうもなく日々を過ごした。平穏な毎日だった。ところが、ゴールデンウイークのあけた五月のある日、彼は登校しない。早速、家庭に連絡すると、彼が置き手紙を残して家出をしたとのことである。そして、駆けつけた私に、母親の手渡したM夫の手紙は、私の気持ちを動転させた。
「先生すみません。おれは、おとといバイクに乗って警察につかまりました。おこられて家へ帰る途中、腹いせにやめていたたばこを吸いました。やっぱりおれはだめな生徒です。先生は、おれの昔のこと知っていながら、黙っているの、おれ知ってました。だから、おれは先生が大好きです。おれは絶対に悪いことしないと、心に決めていたのに、土方の人とこんなことをしてしまいました。父ちゃんや母ちゃんにもすまないと思っています。先生、バスで通うの大変でしょう。体に年をつけてください。」
涙で、しばらく言葉にならなかった、−−幸い、この事件はM夫の父の友人からの通報で、M夫は無事に保護された。
あの日を境にしたように、M夫は大きく変わった。M夫の手記に見られるように、彼の持つ素直さ。それが、ふとした動機から、ゆがんでいく人間のもろさ。そして、M夫によって教師の使命感に目覚めた己の心の不明を私は恥じた。
私は、M夫の結婚式を一日千秋の思いで待っている。七年前の童顔がまだ残っているだろう彼が、中学校を卒業した後、大工の仕事に懸命に取り組んでいる姿を想像しながら。
現任校に来て三年になるが、毎日がほんとうに楽しい。校長先生を中心とする三十名の職員の和は、すべての教育活動に及び、生徒も生き生きとしている。校長先生のモットーである実践力のある教師≠ヘ、気軽な授業研究の展開にも実証される。
M夫との貴重な出会いの経験を大切にして、女教師ならではの力量を大いに発揮していこう、と努めているこのごろである。
(石川郡石川町立石川中学校教諭)