教育福島0007号(1975年(S50)11月)-032page

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教育随想

ふれあい

 

十人の子供たちと

 

十人の子供たちと

梅原昭男

 

秋晴れのさわやかな朝、長い廊下を通って教室へ向かう。

本校には、精薄の特殊学級が三教室並んでいるが、私はそのまん中の教室にいる元気な三・四年生十人の担任である。

教室近くまで来ると、二、三名がばらばら飛び出してきた。

「先生、ぼくのとうちゃん、今日来んの」

私はわざと答えず、

「T君、おはよう」

「ぼくのとうちゃん、今日来んの」

「そうか。よかったなあ」

そうすると安心して、

「先生、おはようございます」

父が機械技師で、日立市のほうへ出張しているが、会社の都合で十日に一ぺんぐらいしか帰宅しない。

この子にとって、父の来る日がいちばんうれしく、待ち遠しいのである。

T……色白で、きょろっとした目の四年生。三年になるとき、A小から転入。

二年生の後半から学校ぎらいになり頭が痛い、腹が痛いと言って、朝食もろくに取らない日が続いた。顔色が悪くなり、ほおはこけて、見ていてもかわいそうだったという。

仮名も読めず、十まで教えることもできなかったので、担任の先生から特殊学級へ入級することを勧められていたのだが、いろいろの事情でなかなか踏み切れなかった。

入級させたら、よほど性にあっていたのか、顔色はよくなり、兄弟四人の中でいちばん早く朝食を取って、家を飛び出して来るようになったという。進歩は遅いが、今は平仮名、片仮名はすらすら読み、書くことは左利きなので遅いが全部書けるし、漢字も一年程度は読めるようになった。このごろは字も読めるので、テレビを独占して困るという。

「先生、こちらにお願いしてよかった

と思います」

母親のしみじみとした述懐であった。

 

「ちぇんちぇ、おはようございまちゅ。たいそうふく忘れました。あったは(あした)持ってきます」

「そう。しょうがないな。あしたは持ってくるんだよ」

S……十一歳。ほんとうは六年生なのだが、施設に入所していたため四年に在籍している。兄弟三人とも精薄でこちらへ入級している。

父母ともに精薄。母は五年前交通事故で死んでしまった。三人の子はそれぞれ別の施設に入っていたのだが、父の再婚で家にもどった。

義母には、連れ子があり「ばかばっかりの家に嫁にきてやった」という態度なので、家の中に波風が絶えない。

いつも子供たちを口やかましくしかり、我が子と差別するので、子供たちもいじけ、非行に走るようになった。

○よく学校を休んだこと(朝食の用意がしてない)

○学校へ早くきて学級の肝油を取ったこと

○近所の店からよくガムやチョコレーートなどを取ったこと

○下校時には、まっすぐ帰らず畑のさつまいもをよく掘っていたこと

〇三人して学校をさぼり、お寺へ行ってお供え物を食べていたこと

○近所の中学生に「家出しよう」と言われ、夜の町をさまよっていたことなどがあって、学校、警察、児童相談所等から再三父母に注意したが、よくならなかった。

ある日、夫婦げんかの末、義母が出て行ってしまったころから、次第に態度も明るくなり、笑顔も見せるようになったのは、担任としてなんともやるせない気持ちである。

先日、今までできなかったタイヤ飛びが、やっと飛べるようになったときに、はずんだ声でこう言った。「ちえんちえ、いっしょけんめやっと神様ができるようにしてくれんだね」

人の性は善なるかな……つくづく感じさせられたものである。

 

「おはよう」大声で教室へ入る。

「おはようございまあす」

それぞれ問題を持つ十人の子供たちとともに、また私の一日は始まる。

(いわき市立小名浜第一小学校教諭)

 

 

 


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