教育福島0010号(1976年(S51)04月)-024page

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教育随想

 

ウロチョロ先生

中原和事

山村辺地の分校で初めて複式学級を担任したときのことである。

 

山村辺地の分校で初めて複式学級を担任したときのことである。

初めに四年生に出題し、次に三年生に直接指導をしていると、いつの間にか四年生が頭をもたげガヤガヤしはじめる。そこで四年生の方へ行く。すると三年生がしばらくしてガヤガヤをはじめる。三年生と四年生のまるで交互唱のようなもので、教師は動物園のおりの中に入ったくま同様、三年生に行ったり四年生に行ったりのピストン運動になるのである。

こんなわけで、生まれつき不器用で落ち着きなく、せっかちなたちなものであるから、器用に宮本武蔵のように二刀流でもって複式指導ができるわけがなく、授業中はウロチョロするありさま。同僚からは、「ウロチョロ先生」というニックネームをちょうだいするはめになった。

その結果、努力して指導した割には成績は不振という反比例の現象に、われながら情けないやら悲しいやらの気持ちで、まさに、「二兎を追う者は一兎をも得ず」のたとえどおりになってしまい、これはえらいところにきたものだとさえ思ったものである。

ところが、職員住宅に住みつき、部落の人々と生活をおくるうちに、だんだん分校にも愛着をもつようになってきたのである。

歓迎会は重箱持参で部落総出、体育館も特別教室もない分校とて、教室と教室のしきり戸をはずし、午前二時ころまで続く。ここにきて酒を飲めないようでは教育はできない。酒飲みはおれが教育する、といきまくものもいる。

こんな調子であるから「郷に入れば郷に従え」かもしれないが、われわれの立場からは、和して同ぜず、という態度でのぞまなければならず、むずかしいものだと思った。

分校にたいしての協力は、平地の学校以上のものがある。祖父も父もあるいは母もがこの分校に学び、各種集会・催しはすべて分校が使われ、文化センター的な役割をはたし、そのためにわれわれが出席しなければならないことが多い。辺地の教育は二+四時間、それも子供たちだけでなく、青年も、いな部落全体とともに歩むものでなければならないと考えた。そんなわけか、部落の人は分校を身近なものとして、自分たちの学校だという感じを強くもってすべてに協力的である。

そんなあらわれが、部落の寄付によるテレビであり、これが部落最初でもあり、夕方になると遠くから子供が見にやってくる。紅白歌合戦のときは教室いっぱいだ。

一夜のうちに数メートルの積雪があれば、早朝からの雪おろしから、その他われわれの私生活の面でも何かとめんどうをみてくれる。この温情に満ちあふれた、素朴な地域の人々の分校への協力には、ただただ頭の下がる思いがした。

住宅におれば、夜、中学生がやってきて英語や数学の教えをこうが、卒業して数年もたてばすべて単位は御返上だ。東北弁の英語やローマ字式の発音で相手をし、数学の解答は中学生と一致せず冷汗のかきどおし。明朝まで提出物があるというのに、十時をすぎても帰ろうとしない老婆。しゅうとと折り合いが悪かったのか、実家へ電話をかけにきた嫁さんに泣きつかれたこと、共済組合より支給される救急薬品は大部分が部落の人に使われてしまう。こんな家庭教師から、老婆の子守り、身上相談、はては薬局と数え上げたらきりがない。

こんな学習以外のことまでもしなければならないが、辺地の子供たちは素直であり、純朴で誠実さがあり、作業等には骨身を惜しまず協力的によくやってくれる。その上、辺地分校は児童数が少ない。このことから、学校全体が家庭的ふん囲気であり、教師と児童の結びつきが非常に強い。

こんなところに魅せられて再び辺地校にやってきた。ウロチョロは十数年前と変わりないようである。宮本武蔵のような二刀流の達人にでもなって、二兎を追い二兎を得るような辺地分校の教師になりたいものだと思っている。

 

(東和町立木幡第二小学校教諭)

 

 

 


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