教育福島0010号(1976年(S51)04月)-025page

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教育随想

 

立場について

斎膝 栄二

ばかり責任を転嫁するどろ試合になってしまうのではないかということである。

 

研究社の「現代英語教育」三月号は「大学における英語教育」を特集している。その特集の中に、拙稿「大学の英語教育に望む1最近の英語教育論争で欠けているもの」という一文を載せていただいた。そこでは、外国語教育の現状と改革の方向に関する平泉試案一氏は参議院議員で、自由民主党政務調査会国際文化交流特別委員会副委員長一について、私は二つの視点をとりあげた。一つは英語教員の養成の問題であり、もう一つは大学入試の内容についてである。ところが、私の小論についてYS12氏という匿名子から同誌四月号において反論をいただいた。今ここで、それらの内容にふれることはしないが、こういった提案・反論等を通して、感じていることを書いてみたい。まず、それは「立場の違い」ということについてである。平泉氏は長い外交官としての生活、国際会議等の経験を土台として、日本の英語教育に対する直言をなさっている。YS12氏は、その書かれている内容からすると、どうも大学の先生らしい。大学入試が現在いろいろと世論からたたかれており、週刊朝日などは、「大学入試問題を爆撃する」などという勇ましい特集を組んでいるありさまである。こういう風潮を腹にすえかねたらしい。氏は「大学入試は諸悪の根源ではない。それは、現実の世相の反映にすぎない。」と述べておられる。大学入試が悪いのではなくて、その入試によって、受験者の選別を要求する社会の現実が背後にあると言うのである。そして、そういう大学をなりたたせているものは、批判側にまわっているはずの世論であると断定しておられる。こういう世論とたたかう覚悟がない限り、大学入試の改善など夢のまた夢という訳である。それはそれなりに、現実認識としては正しいものを持っていると私は思う。だが、今私が懸念することは、こういう議論を続けていると、お互いに相手にばかり責任を転嫁するどろ試合になってしまうのではないかということである。

戦後の教育は、そのよい面も悪い面も含めて、今までいろいろと言われてきているが、その中から一つだけ悪い面をとりあげろといわれれば、それは、「責任をとらない教育」ではないかと思う。私の感じでは、それを支えたものは二つあったと思う。一つはすべては社会のシステムが悪い、社会の体制がなおらない限り、その中の悪はなくならないとする考え方である。また、もう一つは、「心理分析主義」とでもいうのであろうか。非行少年や盗みを働いた少年のケース・スタディ(事例研究)というのがよくとりあげられた。ある一人の少年のおいたちを追求していくと、実は彼を非行や盗みを働くところまで追いつめていく諸要因が、その環境の中に準備されていたのであって、本人はただその被害者にすぎないという考え方である。こういったものを基礎にして、戦前の教育を受けた者からすれば、鼻もちならぬ無責任世代が大量に産出されたという訳である。しかし戦前がどうであれ、戦後がどうであれ、私達は、今、現在立っているこの場所からスタートする以外にない。しかも、戦前と違って、現在、わたしたちの社会に存在する「立場」というものは、その量においても、質においても、比較にならぬほど、多様化してしまったのである。その上、それぞれの立場で要求し、発言することを覚えた。このままでいくと、ますます私たちの社会は、交通整理がむつかしくなり、コントロールからはみだした部分は、社会とかみあわず、それが大量の無関心層や、シラケの世代となるのではないか。さて、どうすればいいのであろうか。私は、小さなことだが、ひとまず、すべての責任を、まず自分にむけてみるという発想が必要ではないかと考える。なにも目あたらしいことではない。しかし、なかなかできにくい人間の修養の問題でもある。それに手をつけない限り、人間同志としては別に憎み合っているわけではないのに立場という仮面をかぶると、判でおしたようにぶつかりあう不協和音は、ますます大きくなるばかりではなかろうか。

 

(福島県立福島女子高等学校教諭)

 

 

 


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