教育福島0010号(1976年(S51)04月)-027page
教育随想
残された班ノート
今泉 暁美
表紙のくたびれたノートが、三十冊ほどある。この三月に卒業した生徒たちが、二年間書き続けてきた班ノートである。そこには、四十人の成長のあとが記されている。
生徒も教師も忙しい中学校生活の中で、一人ずつじっくりと話す機会はほんとうに少ない。そうした毎日、班ノートは、私と生徒また生徒同士をつなぐ大きな力となったと思う。そこから学活のテーマがきまり、昼食時の話題が生まれたこともしばしばである。
二年生のはじめには、授業や清掃の反省が同じようにかきつけられている。他の人の考えについて書いたり、自分のほんとうの気持ちもいくらか書くようになるまでには、半年近くかかった。そうして、班ノートについても、反省や自覚がでてきた。
二年生の十二月ごろから、班ノートを長く書くことが流行した。内容には、創作風あり、DJ風あり、クイズありイラストありで楽しかった。が、時間がかかるのと、「班ノートはいかにあるべきか。」という反省がでて、あまり長く続かなかった。しかし、それ以後、班ノートはバラエティに富んできた。生徒がひどく個性的になってきたと感じはじめたのも、このころである。
三年生になると、学習やテストなどのことが多くなる。また反面、班ノートを息ぬきにしている者もいる。書いた気持ちを考えると、いいかげんな感想ではすまないようなものも多くなった。
○ある本を読んでいて、親のいうことは素直にきくようにしなければならないんだなと感じる。その時、母が、あのかん高い声で自分を呼んでいる声がする。すると、自分は反抗的ないいかげんな返事をしてしまう。せりかくいい気分だったのにと思う。自分は、考えることとすることがくい違っている。それが何だといわれても困るが−。
○あと何日で卒業などと、口にするようになった。毎年卒業していく人たちは、どんなことを思い、どんなことをして来たのか。人ごととばかり思ってきたのに−。でも、みんなはふだんと変わりなく、大きな声で笑ったりしている。気を紛らしているのかな。なんだか、不思議に思えてくるな。腹の中かっつあばいて、見てみたい。
こんな文章のあとに書いた赤ペンの私のことばは、なんと通りいっペんのものだったかと、恥ずかしくなるほどだ。生徒の重い心のしこりを、いったいどれほどほぐしてやることができたろうか。正面から、がっしりと受け止めていたろうか。ひとりの生徒にとって、たった一度のその時を、職業的な慣れで、処理してしまったのではないだろうか。
班ノートの最後に、こんなことばもみられる。
〇三年間でいちばんうれしかったこと−−この組になれたこと
三年間でいちばんばかみたいと思ったこと−−自分。
三年間でいちばん楽しかったこと−−集団宿泊訓練に学級のみんなといった時。
三年間でいちばん悲しかったこと−−竿業。
○先生も苦労したでしょうね。こんな私たちを納得させながら、毎日すごしていた時「教師っていやだな。」なんて思ったことありませんか。「あの時どうしてもっと素直になれなかったろう。」と反省しています。先生、これからも私たちのこと忘れないでくださいね。私たちも忘れません。
残された班ノートの中で、生徒たちはいつまでも語りかける。それは私に「教えること」と「人が人を理解すること」のむずかしさを、いっそう感じさせる。
今、生徒たちは、自分の道を歩みだしている。私は、にぎやかな一年生に囲まれて毎日を過ごこしている。この二年間に生徒たちに教えられたものを、こんどこそ生かしたいと思いながら。
(船引町立船引中学校教諭)