教育福島0010号(1976年(S51)04月)-029page
教育随想
一輪の菜の花
滝沢洋之
数年前の卒業式の日の事だった。みぞれまじりの寒風の強い日だった。卒業生もすべて帰り、先生方もほとんど帰宅して、にぎやかだった学校もひっそりと静まりかえっていた。週番であった私が校内を巡回して、卒業生のあるクラスに入ったときである。戸を開けたとたん、教壇の上にさしてある一輪の菜の花が目に入った。もう薄暗くなっていただけに、菜の花の黄色がいたく目にしみた。机もいすも整然と整頓されて、教室内のはり紙もすべてはがされ、紙切れ一つ落ちてはいなかった。
寒々と冷えきった教室も、この一輪の菜の花によって暖められているようだった。だれもみることのない教室にだれがなんのために持ってきたのか、私にはわからなかったが、これほど美しい花は今までみたことがなかった。
授業中は騒々しく、しばしば授業を中断して注意をうながしていたクラスだっただけに、私の驚きは大きかった。
しばらく、菜の花の美しさに見入っているうちに、いろいろな事柄が走馬燈のようによみがえってきた。奇声を発して、授業に耳を傾けなかった生徒。教科書も読めずにいつも困っていた生徒。冗談をいっていつもみんなを笑わせていた生徒。それぞれの顔が一つ一つ浮かんできた。
昨年の九月の事だった。出張の折、汽車の出発時刻まで間があったので、駅構内のレストランに入って昼食をとっていたら、「先生しばらくです。」と歩み寄り、私のところへやってきたウェーターがいた。よくみたら、そのクラスのY君だった。授業中、私の講義などには耳をかさず、奇声を発してしばしば私から注意を受け、手を焼いていた生徒である。「先生の名前は覚えていないが「あだ名は覚えているよ」と人なつっこく言った。食後に、「これは私のおごりです。」といって、フルーツポンチを持ってきてくれた。このささやかな心づくしがたいへんうれしかった。
いろいろ高校時代の思い出に話がはずみ、忘れることのできなかったあの菜の花の件を話したら、その花を持ってきたのはY君であることがわかった。
汽車の発車を知らせるベルの音にせきたてられて、どうして彼がしおらしくも菜の花を持って来て教室に飾ったのかを聞くことはできなかった。三年間、いろいろな思い出のある学校と、叱られながらも授業を受けた教師へのささやかな感謝の表現であったろうか。
とかくその生活態度がうんぬんされる現在の高校生ではあるが、教師と生徒との結びつきを深めていくと、生徒から教えられる面も多く、生徒たちが着実に成長の芽をのばしているのを知ることができる。
卒業してからも遠路はるばる尋ねてくる生徒もいる。卒業して盆栽作りに精を出し、丹精をこめて育てたものをもって来てくれた生徒もいた。「私は野に咲く花のように、ひたむきにたくましく生きてみたい。」「苦しくとも耐えていけば、昨日までの苦しい日々はすべてこの日のためにあったんだと思い改める日がきっとくる。」と熱っぽく話した生徒もいた。尋ねてくれる生徒との話し合いの中から、温かい人間的なものが感じられる。そこには、本校の教育にみられる、授業ばかりでなく、実習を通して、部活動を通して形成される全人教育があるようだ。知的偏重といわれる高校教育が問題になっている中で、教育の本質はここにあると確信している。普通高校から農業高校である本校へ移って、最初はとまどいながらも、教師と生徒との温かい人間的な結びつきの中から教師としての喜びはいつそう強いものがある。
今年もまた、菜の花の咲く季節となった。会津盆地の菜の花畑も年々減少しているが、会津地方に春を知らせる花として、心に慰めと喜びを与えてくれる。菜の花を見ると私はいつもこの卒業式の日の事を思い出す。通勤途上にみる菜の花を見ながら、時には投げ出したくなる問題の生徒に対して、教育的情熱をいっそうかりたてられるのである。
菜の花−それは清純で心温まる花である。
(福島県立会津農林高等学校教諭)