教育福島0010号(1976年(S51)04月)-030page

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教育随想

 

教育目標への意欲化

河原田 勉

のような所をはいまわる恐れもあるので、あらかじめ御了承をおねがいしたい。

 

教育は豊かな人間性の育成をめざして行われる。大脳生理学では、人間を合理的存在よりはむしろ非合理的存在としている。わかったようで分らないのが教育の対象である人間性の問題であろう。この一文もおそらくそのような所をはいまわる恐れもあるので、あらかじめ御了承をおねがいしたい。

人間はその特有の精神活動のゆえにその尊厳がうたわれ、教育の可能性もまたこれに由来する。生まれたままに放置されれば、その非合理性に基づく矛盾やアンバランスが、破滅の方向に走ろうとする人間性を、教育によってのみその調和的開発が保障される。人間はその有限性や非合理性を宿しながらも、その自覚と生がい教育の志向により、その性格能力等の個人差はあれすべて無限の可能性やその実現性が内蔵される。これを第一の観点とする。

豊かな人間性という場合、多様性の調和均衡ということから、本能と理性個性と社会性、合理性と非合理性、知と情と意の三者間、あるいは保守的と進歩的など諸矛盾を含むものの調和的コントロールが、教育の本来的課題だともいう。これを第二の観点とする。

学習とは人間がその環境に適応(または改造)する過程で、既知をもとにして未知を解明する心身の活動をとおして行われることから、教育は人間の発達過程に応じた課題の解決という形をとって行われる。これを第三の観点とする。

さて、教師が子供を教育するにあたって、豊かな人間性の伸長をめざすならば、子供自身に内包する可能性に立ち向う自己実現への豊かな意欲をかき立てるようにしなければならなくなる。なぜならば、押しつけや詰め込みなど受身の要素が多ければ多いほど、豊かなというイメージからは遠のいていくに違いない。

そこで、子供に「目標を自覚し、自ら努力しようとする豊かな意欲」を呼びおこすためにはどうするか(意欲化)という問題に当面する。さきにあげた三つの観点は、教育の基本的性格であり、これらをふまえて、子供の意欲化の問題について考察したい。

子供の自己指導を効果的に導くものは何であるか。その成長発達の段階や生活環境の特質などに応じて、一律にこれだと言いきるわけにはいかないかも知れない。しかし、学校教育においては、その基本となるものを、学校の教育目標に求めなければならないと思うがどうであろうか。しかも、それは子供に親しみやすく、またその自己指導の指針として効率性の高いものでありたいように思う。

学校の教育目標が、さきにあげた三つの教育上の観点をふまえながら、子供の自己実現への意欲化を促進するに足るものをめざし、ここにその構想をかかげてみる。つまり学校の教育目標を源流とする学年・学級そして子供個々の具体的生活目標の設定実践へと発展するのが筋であるし、そのためにこそ子供自身の内面に自己のあるべき姿を指向させるものでありたい。

まず第一にその目標は子供に対し、常に「何を」めざすのかを示唆するもので、積極的に意欲化を促進することを要する。それは、次の内容を含みもつもので、あいことばで示すならば「時所位の心」と呼びたい。今までの自分の足らなさを反省し、今の自分を今よりもよりよい自分に向上させる(第一観点)ために、自分のおかれている日常生活(人間関係一の中で、その時その場の状況に応じて、今の自分の立場では(小学○年生として)自分のなすべき課題(学習内容・役割・仕事・つとめ…)が何であるかが分かり、そしてこれをなしとげるのに必要な力を養い、さらにこれをなしとげようとする意欲(第二、第三観点)を心の姿とする内容である。

つぎに第二にあげる目標は、子供に対し、第一の「何を」を限定するもので、「どんな」「どのように」を示唆するものであることを要する。これは一般に採用されている目標の類と同じく、本校では三つの児童像を「明るい子」「強い子」「考える子」と表現しその具体的内容は別に示される。(第一第二観点)これら二種の目標は子供に対し、相補的にその内面的自覚と意欲化を促すはたらきを期待している。

 

(会津若松市立一箕小学校長)

 

 

 


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