教育福島0010号(1976年(S51)04月)-031page

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教育随想

 

今思うこと

舘 康一

二学期が終わるころには三分の一ぐらいが授業についてこれなくなってしまう。

 

毎年四月、新入生は教科として初めて習う英語に好奇心を燃やし、期待に胸ふくらませて入学してくるが、半年もたつと学習意欲をなくした生徒が出始める。そして二年の二学期が終わるころには三分の一ぐらいが授業についてこれなくなってしまう。

英語の教師なら、こんな経験をお持ちのかたが案外おいでになるのではないだろうか。他の教科の場合、小学校六年間の学力差が大きすぎて、中学校の授業についてこれないということがあるかも知れない。しかし英語では、習い始めて半年ぐらいで脱落する生徒が出るのはなぜなのだろう。

今まで多くの人が指摘したように、教材の配列、授業システム、指導技術などにも問題があると思う。しかし、それだけならもうとっくに解決していても良いと思うが、周囲を見回すとなかなかそう簡単にはいっていないようである。

一般に、教師という職業は、自分が好きで得意な学科を専門とする。特に英語と数学の先生にはこのタイプの人が多いように思うが、好きな人には嫌いな人の心情が良くわからないという弱点がある。

また、中学校段階の生徒の場合、教科の好き嫌いは教える先生個人に対する好みにも関係があるし、生徒それぞれの性格・適性もあって、理屈では簡単に割り切れないが、「好きこそ物のじょうずなれ」で、だいたい好きなら良く勉強もするし成績も良いのが普通である。

ところが、生徒たちの勉強意欲は、単に好みばかりで左右されているのではないことに気付いた。高校入試科目だと言う理由は除いて、他に、「何か」があるのである。それが私にはなかなかわからなかった。

先生になりたてのころから相当永い年月の間、牛の鼻面をとって引き回すような授業をやっていた。若さということもあって無我夢中で「教える」ことに熱中していたように思う。そのくせ苦労する割に効果は上がらず、生徒の不勉強のせいにしては自らを慰めていた。そして地域的にも生徒の質が悪いのだなどと、とんでもないことを考えたこともあった。しかし、現在ではそのことを思い出すと、汗が出るほど恥ずかしい。

英語は教科の性質上、授業には訓練的な活動が多いが、それが落とし穴になっていたと思う。訓練は自発的な意志を持つ者に対しては明らかな効果があるが、逃げ腰の者にはマイナス効果の方が大きい。だからいったん意欲を失った者に訓練を強化しても、事態はますます悪化する一方だった。旅人と太陽と北風の寓話そのものである。

ところが、実は子供は探求心の固まりみたいなもので、それを満足させてくれるものであれば何にでも食いついていく。そして自分のやったことを他人に承認してもらえたら、自信をもってどんどん進んで行けるものだということ。こんな簡単なことが確信できなかったばかりにずいぶん遠回りしてしまったと思う。

子供自身の前進力を信ずること。そして具体的に方向づけしてやり、能力段階に応じて適当な材料を与え、やり方を教えて、やらせてみて、要所要所でチェックし、双方が了解している一定のルールに従って評価してやれば、子供は自ら力を発揮して見事に成長して行く。私が今の学校で学んだことは実にこのことであった。

私がこれを確信できるようになると相手の子供たちが変わり始めた。それは私自身にも信じられない変化だった。子供への信頼が私を変え、同時に、子供の授業への取り組み方が違ってきたのである。授業という教師と子供の相互の信頼の上に成り立つ協同作業の中で、お互いの責任分担が明確になり、双方がその責任に対してベストを尽くすことになった。

私はいまさらながら、子供の持つ可能性のすばらしさに驚くと同時に、教師は子供によって教えられ成長するものだという実感と喜びを、ひしひしと感じている昨今である。

 

(いわき市立藤間中学校教諭)

 

 

 


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